谷内緑 1話

「一つだけ、条件がある」


 昼間の事を思い出すと、まだ胸が跳ねた。

 誰かに脳内を勝手に覗かれていないか、不安になる。

 

 本当に僕は臆病だ。


 臆病で 

 卑怯で。


 この場所に来ても、甘い幻に手を伸ばそうとしてる。

 星さんの話を聞いた時も、本当はその場を離れるのが怖かっただけかもしれない。

 断れる勇気も、持ち合わせていない。

 その癖星さんの言葉を聞き進める度に、外の世界で薬物に溺れる自分を想像して、今も薬が欲しくて欲しくて堪らない。 


 僕は薬の為に脱獄を決意した。



「条件……か」


 自然と漏れたその言葉は、すぐに空気と同化した。

 何度したかわからない、昼間の会話の反芻をする。



「計画はシンプルだ。考えるのが面倒な訳じゃない。ただ、必須条件を満たせない場合を見越して、引き返せるポイントをいくつか作る。何度か挑戦する事になるかもしれない。思案と実行は、そう簡単には一致しないからね。」


 星さんの言葉は、まるでそのピースが最初から作られていたかの様に、僕の頭にかっちりと嵌まっていった。


「単純に、ムショを囲んでる塀を脚立を使って登り、壁の向こうで待機している、俺の弟の車の荷台に飛び込む。誰でも考え付く脱獄方だと思うけど、これ以外の方法は、クリアしなければならない前提条件が多すぎる」


 それに、と星は続けた。


「この方法はシンプルで、実行し易そうに見えるけど俺達内掃工場じゃないと成功しない」


 星さんは「今の俺達のメイン作業は?」と皆に問い掛けた。

 誰かが「剪定」と呟く。


「そう、塀付近の剪定だ。剪定に脚立は必ず必要だし、塀付近で作業をしながら実行するタイミングを計れる。前提条件は、助務(じょむ)が無力化し易い人間の時と、横谷を抑える事」


 僕達受刑者を監視する正担当と、日替りで変わる補佐の役目を担う助務を前提条件として掲げた時は、「確かに」と皆が頷いた。


 助務は経験が浅い者に経験を積ませる為に、講習の様な形で正担当の補佐に就く。

 若い助務は所内で工場をたらい回しにされ、やがては正担当や各部署に配属される。

 

 内掃工場の作業中の監視は受刑者6人に対し、職員二人体制か、二班に別れた場合一班3人程度であれば監視1人体制が常であるから、この二人を抑えるのは脱獄するには必須と思えた。


「PHSの定期連絡の着信は、一度来ると暫くこない。だからこの着信が実行の合図になる。この着信が来るまでは、絶対に行動しないし着信時に他の職員の目がありそうなら、無理はしない」


 職員には連絡用のPHSと、捕縛用の縄の携帯を許されている。

 収容当初は職員が銃や警棒すら所持していない事に僕は驚いたが、過去に受刑者を刑務官が暴行した事件や、時代の変化で所持を許されなくなったと、他の受刑者から聞いた。


「計画の骨格は簡単だけど、こんな感じかな。俺達内掃は他の工場に無い武器を複数持っている。それが何か分かる?」


 一通り喋った星さんは、優しい口調で問い掛けてくれた。


「脱獄経路と作業場所が一致してるし、やっかいな非常ボタンが、俺等の付近にはないな。脱獄犯が少人数なんも武器や。あ、脚立が自然に使えるのもか」


 スラスラと答える本山さんを見て、僕は少し前の星さんと本山さんを、見ている錯覚に落ちそうになったのを覚えている。


 そんな訳、無いのに。 



「いいね。でも一番重要なのは、このメンバーだ。もちろん他言しないと、一言残しただけでその言葉の意味を疑わせない、吉田君含めてね。このメンバーじゃなければ、俺は1人で実行してたよ。間違いなく」



「あの、条件ってのは、どんなものですか? 俺は囮役でもいいですよ」


 僕が一番気に掛かっている事を、小西君が聞いた。

 恐らく後半の言葉には、触れない方が良いんだろう。


「正直に言うと、共謀してくれるのは本山君だけだと思ってたから、こんなにも俺のわがままを聞いてくれて本当に感謝してる。もちろん、気が変わって脱獄何かしないって言おうがこの気持ちは変わらない。そっちの方が普通だとも思う」


 それを踏まえて、と星さんは続けた。


「俺の弟の車に乗ってから、ある程度ムショから離れたら車を降りてほしい。共謀はそこまでだ。俺は嫁と会えればそれでいい。できる事ならば、各々に逃げ道を作りたいけど、俺にそこまで大きな力はない。それに嫁と会えた後は、あまり間も無く俺は逮捕されるだろう。」


 このメンバーの中でシャバの世界を見せて、更にはその後の面倒まで見ろと言う図々しい人間は、いなかった。

 もちろん脱獄を失敗して、刑期だけが増える可能性もある。

 けれど、僕は何故かこのメンバーなら、成功するんじゃないかと思った。

 頭の良い星さんが計画した事に、間違いはないと思えた。

 それは昼間の事を反芻して、考えている今も変わらない。


 きっと、成功するだろう。


 大事なのは、脱獄の後なんだ。








「だから、身元引き受け人を解除する理由を聞いてるの」


 もう何度したか分からない問答を続ける。 

 限られた時間しかない、面会時間の終わりも迫っている。

 母さんには、いつも迷惑を掛けっぱなしだ。

 僕が脱獄するって言い出したら、きっと悲しむだろう。


 僕は卑怯で意気地無しだけど、多分根っから犯罪者なんだ。

 こんな時でも薬の事が、頭にちらついているんだから。


「本当にごめん。いつになるか分からないけど、絶対に顔出しに行くからさ。保護会で1からやり直したいんだ」


 取って付けた様な理由だけど、僕の頭ではこれが限界だ。


「お婆ちゃんにも、相談して手紙を出す」


 いくらかのやり取りの後、母さんはそう言って僕の顔を見なかった。

 こんな時は、いつも僕が押し通してきた。

 でも、きっとこれが最後のお願いになるよ。



 脱獄した後の計画は、あまり立てていない。

 一つだけ保険は掛けてあるけれど。

 星さんが最低限の衣類と変装道具は用意してくれていると言っていたから、日雇いの現場かキャバクラのボーイで働けば、何とかなると思う。


 星さんは捕まらない様に、全力を尽くしてほしいと言っていたけど、言われなくても皆全力で逃亡する筈だ。


 単独ではなく、集団での脱獄。

 それに横谷達を無力化しなければいけないし、1年や2年の刑期の追加では無いと星さんは言っていた。


 まだ決行には時間があるけど、それぞれ脱獄後への為に動いてほしいと言った切り、作戦の練り合わせは行われなかった。






 母さんから手紙が来る事なく、決行の日が近付いてきた。




 ここまでの離脱者は、中西さん1人だけだった。

 何となく離脱する雰囲気じゃなかったから、僕は少し驚いた。


 だけど中西さんが抜けると共に、横谷を風呂場で引き付けると言い出してくれた時は、少し見直した。


 ここに来てやっと、作戦の練り合わせが行われる様になった。


「決行まで後3日。単純な流れだから、あえて今日まで練り合わせは控えてたけど、何も言わず待っていてくれてありがとう」


 皆星さんの次の言葉を待っていた。


「変更点は横谷を抑えるのを、中西君が担当してくれる事のみ。後は予定通り、剪定中の異常確認の着信後決行する。」



 慎重に一息付き、星さんは続けた。


「対処しきれないイレギュラーが起きたら、即刻中止する。もちろん助務を抑えてからのイレギュラーは、強引に突破するしかない。万が一機を改める場合は、翌日の剪定場所は少し変わるけど剪定のルートを、弟に伝えてあるから心配しなくていい」


 一番大事なのは、と星さんは続けた。


「車に乗り込んだ後だ。すぐに脱獄はばれると思う。どれだけ包囲網から離れるか、そしてみんなは車から降りてから、捕まらない事を考えてほしい」



 僕ですらもう、何度も考えた。

 多分、みんなは上手くやるだろう。 



 改めて塀を見ると、とても高い。

 4メートルは越していそうだ。

 内掃工場にある3つの脚立に細工して、ようやく届くぐらいかな。

 飾りの様に、カメラが付いているけど本当に機能してるんだろうか。


 周りを見ると、みんな同じ様な顔で壁を見上げていた。




 決行の日になっても、僕の元に母さんの手紙が届く事はなかった。

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