小西 2話

 新しいおやじは、横谷(よこたに)と名乗った。

 人は見た目を現すとは、良く言ったもので横谷は、不摂生丸出しの太り方をした体型で、口元は歪に曲がり、喋り方も独特な粘っこさがあった。


 作業に関しては、初めからやる気は無く、一番席と二番席に任せ、本人はただ監視している振りをしていた。

 職員も仕事なので、作業の合間合間に休憩を取る。

 交代専門のおやじに、休憩の時間は自身の工場を、任せる休憩システムだった。


 横谷が短い小休憩から工場に戻ってきた時には、いつもヤニとタバコを、ドブから掬い上げた様なひどい匂いがした。

 受刑者は鼻が良くなると言うが、恐らくシャバの世界でも凶器になりうる口臭だと、皆口を揃えて言っていた。


 横谷の正面に立つと、息が直接鼻に付くので誰しもが、横谷の正面に立つことを無意識に避けた。

 たったそれだけの事なのに、受刑者である俺達の不満は溜まっていく。

 嫌ならば、こんな所に来るような事をしなければいいじゃないか、と誰しもが口を揃えて言うだろう。

 けれども、後先を考えずに人に迷惑を掛けるのが犯罪者であり、更にどんくさい奴が逮捕され、刑務所に収容される。

 そんなどんくさい俺達には、些細な事ですら癪に触った。


 それでも、最初は前任の白井のおやじの顔があると皆で、「できる工場」を精一杯工場で見せようとした。

 しかし、見せたい人物である本人に見る気がないのだ。


 頭にあるのは、酒とギャンブルだけ。


 柔道は腕が立つと自身で豪語しており、刑務官の道に進む事になったと、聞いてもいないのに喋っていたのを聞いた事がある。



 人が変わると、それまでの流れの様な物が変わる。


 当然、良い流れも悪い流れも。

 人の力では、どうにもできない何かが流れ込んでくる。


 横谷が正担当になり、3ヶ月が過ぎた。

 その間も腐らずに誰一人だらける事無く、作業に従事していたのは、白井のおやじが如何に俺達の心を掴んでいたかを、現していた様に思う。


 そんな矢先に「悪い流れ」は牙を剥いた。




 俺達受刑者が、他の工場の作業を目にする事は少ない。

 仮に目にしても脇見と見なされない様に、見る方も見られる方も、配慮しなければならない。

 俺達内掃の人間が入浴場を清掃する際は、浴槽内から逃亡等を図らない事も含め、通常は刑務所の廊下に面する浴槽の引き戸を、締め切って作業をする。

 しかし、その日は引き戸が開けっ放しになっていた。

 誰しもが自分の役割を果たす為に作業をしている為、

いつもは閉めている引き戸が開いているのに、俺以外に気付いた人間はいなかったかもしれない。

 俺は引き戸に疑問を覚えただけで、自身の責任に関わる作業ではないから気に留めなかった。



「じゃあ清掃切り上げて湯を張ろうか」


 いつも通り、星さんの指示が飛ぶ。


 しかし、俺達の返事は怒号に掻き消された。


「許可も取らずに口談しとんのは誰や、おらぁ!」

 

 重い声が辺りを揺らした。


 誰もが言葉を失ない、立ち尽くす。


 声で思考を吹き飛ばされた経験は、初めてだった。


 廊下からやけに響く足音で、入浴場に入ってきた職員は浅黒く日焼けした、所内では見掛けないおやじだった。

 しかし俺達受刑者の視線は、すぐに胸の階級を表すバッチに釘付けになった。

 そのバッチには金色の線が、三本入っている。


 上層部の職員である証──


 受刑者の間では、金色の線が入った少数のおやじに目を付けられてはならない事は、どんな馬鹿な受刑者でも知っている、当たり前の常識だ。


「今不正口談をしたんは誰や? 手挙げろ」


 恐らく、星さんも頭の理解が追い付いていなかっただろう。

 それでも右腕が、ピクリと動いたのを見た。

 他の受刑者も、みんな星さんを見ていただろう。

 無意識に視線が、星さんの方へ向いてしまっていた。

 口談をしていたのは星さんと言うことを、仲間である俺達が示してしまっていた。


 しかし、星さんが訳も分からず手を挙げるよりも先に俺達の耳に、聞き間違い様の無い声量で声を挙げた者がいた。



「星ぃ、お前やろ! 普段から注意してんのになんちゅうやつや! 処遇や!」


 横谷の粘りが後を引く様な怒声が響く。


 普段使わない頭をフル回転させて、自身の保身の為に最優先で動いたのだ。


「はい、申し訳ありません」


 星さんは、小さな声でそう答えた。



 その後は、何度も何度も練習した様な機敏な動きで職員が何人か駆け付け、星さんは「調べ室」と言う処遇を決める部屋に連行された。


 その後はどう定例作業を進めたのか、あまり覚えていない。

 恐らく他のみんなも、そうだっただろう。

 皆一様に蒼白な顔をしていた。




 幸い星さんは2時間掛からない程度で、無事に帰ってこれた。


 二番席の本山さんや三番席の吉田さんは口を揃えて、「不正口談」では懲罰には滅多にならないと自身と周りを納得させる様に、何度も言っていた。


 この刑務所内では作業中や部屋で過ごす余暇時間や休憩中以外は、大半がおやじの許可無しで口談する事を禁じられている。

 しかし、他の工場と経理工場とでは作業内容が異なる為、作業に関する事では黙認されている傾向にあった。

 事実、口談で横谷に注意を受けた者は一人も内掃工場にはいなかった。


 今回の様に、上層部の人間が所内を巡回する時が稀にある。

 白井のおやじの場合、その都度もうすぐ巡回が来るから全員気を張れよ、と一声掛けてくれていた。

 「気を張れよ」の意味はいつも以上にちょっと頑張れよ。の意であり、「口談」するなよ、では無い。

 何故なら白井は「作業口談は俺が許可したと言えば済む話だ」と、常々俺達に言い聞かせていたからだ。

 その言葉通り、白井が正担当になってから「不正口談」で注意された事は一度も無かった。


 俺達が、白井のおやじに甘えすぎていただけかもしれない。

 それでも横谷が放った一言は、俺達の心を挫くには充分だった。

 これから約二年もの間、奴と共に自身の罪と向き合わねばならないと考えると自身が出所した姿を想像するのと同じ様に、ぼんやりと幻を掴む様だった。


 万が一横谷が、「こんなおやじ嫌だ、1日でも早くこんな場所から決別したい」

 そう思わせたいのであれば、まんまと俺達は術中に嵌まって踊らせられている。

 作戦は大成功と言えるだろう。




 無事に帰ってきた星さんは、一言謝りはしたものの調べ室での内容を教えてはくれなかった。

 「厳重注意」で済んだから良かったよ、と言う星さんに、誰もそれ以上聞かなかった。






「だからおやじは関係ねえって。帽子取って口談してりゃ、あぁはならなかったよ」


 翌日の運動の時間は「横谷」よりも、何故注意されたかについて話し合った。

 発言したのは三番席である吉田さんで、この人は何事も本当にそつなくこなす人であるが、この刑務所に収容された初期に星さんと同じく「不正口談」で、調べ室に連れて行かれた事があると言っていた。

 当時は白井のおやじも、就任前だったので誰も庇ってくれる人間もいなかったらしい。

 しかし実際に口談していたのは吉田さんではなく、当時吉田さんよりも上の番席の人間だと言う事だった。

 更に「作業口談」では無く、その日の昼飯についての口談だったと言う吉田さんの表情は、淡々としていた。


 それでも吉田さんは巻き込まれない様に、ベストなタイミングで帽子を取っていたら、あの時調べ室に行くことはなかったと常々言っていた。


 正規の口談手順は、付近のおやじに「口談お願いします」や「○○の為、口談の許可をお願いします」と作業中は受刑者全員が着用する帽子を、着脱して申し出なければならない。

 しかしこんな手順を踏んでいる経理工場はひとつも無く、この山田刑務所ではほとんど見掛けた事もなかった。

 恐らく横谷のおやじにその手順を実行すると、露骨にめんどくさそうにするだろう。

 やり過ぎると怒りだす事すら考えられた。


 ルールなんだから守るのは当たり前。

 それは分かる。

 吉田さんが言っている事は正しいし、帽子を着脱していれば、実際に調べ室行きは免れたかもしれない。

 それでも俺は、風呂場での件はやっぱり理不尽だと思う。

 引き戸をそのままにしてしまった、負い目もあるのかもしれない。


けれど、思うだけで何も有力な事を提案できないのは、外の世界でもこの閉鎖的な世界でも一緒だった。




理不尽だと拗ねているだけでは、状況は好転しない事は皆口に出さずとも理解していた。



「吉田君の言う通り、どんな作業中も帽子は取ろう。目を付けられる事になって申し訳ない」


 この星さんの一言で誰も何も言えなくなった。

 一番席ってのも、楽じゃないんだなと感じつつも煮え切らないまま時間だけは過ぎていった。

 実の所、俺は煮え切らない「振り」をしていたかっただけなのかもしれない。

 今俺がしなければならないのは、職員や他の人間の不運に腹を立てる事じゃない。


 外で待たせている人の事を思って、自分が何をしてこの場所にいるかを悔い改める事だ。



 馬鹿な俺は、いつも脱線しそうになる。

 その度に絶妙なタイミングで、いつもの便箋が届く。

 俺はこの便箋の為に、わざと脱線しそうになるのかもしれない。

 そんな馬鹿な考えを巡らせながら開く便箋は、どこか懐かしい「その人」の匂いがして、いつも心臓が一回り小さくなったんじゃないかと思うくらい胸が締まる。


 内容はいつもの様に他愛の無い事。

 それでも、俺にとっての「光」である事に変わりは無いんだ。


 外の世界での季節の変化から始まり、俺の体調を気遣う言葉。

 志乃しのが初めて何かを一人で出来た事。 

 俺以上に俺の好みを知ってくれている癖に、差し入れはどんな物が良いかを聞いてくれて、いつも返事し忘れるのも、もうあいつも慣れたかな。

 きっとこんな事、慣れさせてはいけないんだろう。


 1日でも早く出なければならない。


 俺は犯罪者だけど



 「光」の「影」ぐらいにはなれると思うから。





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