第169話 絆(3)

いつもは


あんなだけど


きっと


この人だって


いろんな挫折とか


絶望とか


経験してきたんだろう。




八神はホールの2階席の一番前の席に座り、手すりに肘をかけながら


真尋の


ラフマニノフを聴いていた。


なんでもないように


こうして涼しい顔をして


ピアノを弾いて。


あっという間に


こうして


聴いている人間の心をさらって。


横をふと見ると絵梨沙が祈るような目で彼を見ている。


彼女と二人で。


いろんなこと乗り越えて。


なんか最近。


すぐ涙出てくる。


八神はハナをすすった。




そして公演当日。


本番ギリギリまで


絵梨沙の膝枕で横になり


タキシードが皺になると


彼女に優しく諌められながら


いつものように


真尋は光の舞台へと進んで行った。






「あ・・八神です。」



「おう・・どうした? 終わった?」


日本の志藤に電話が入ったのは早朝5時だった。


「ええ。 無事に。 もう・・すっごい拍手で。」


声がつまる。


「そっか・・」


志藤もホッとした声を出した。


「早速・・地元の新聞の取材の仕事や・・他のオケの関係者から問い合わせがあって。」


「おまえ、泣いてんの?」


と、いきなり言われて、


「え? な、泣いてなんか・・ないですよ。」


と強がったが。


慌てて頬にまで伝わった涙を手で拭った。



「ほんっと、おれ幸せだなあって、」


「・・なんやねん、いきなり。」


志藤はふっと微笑む。


「真尋さんのピアノと出会えて・・幸せです。」


「もの好きやな・・」



そう言った志藤だが


それは


自分も同じ気持ちで。


八神の感動が


遠い遠いウイーンから伝わってくるようだった。




「八神、」


インタビューを受け続けていた真尋とおちついて会えたのは、公演後2時間が過ぎたころだった。


「・・ほんっとよかったです。 おれ、感動しちゃって、」


八神はまだ感動冷めやらぬように言った。


「ま、あとは八神の結婚パーティーだな! もりあがるのは!」


いつものガキ大将みたいな笑顔で言った。


「も・・バカなこと言わないで下さい。これから、まだまだ仕事、あるんですから。」


つられて笑ってしまった。


「いや~。 もう、どう盛り上げようかって。 ちゃんと練習するからな、」


「そんなのいいですってば・・。」


背の高い真尋に頭をくしゃっとやられて笑った。




「あ、おかえり~。 おつかれさま。」


美咲は八神が帰るのを待ちかねていたように玄関に出てきた。


「ただいま~。 あ~~、つっかれた・・」


八神はぐったりとして入ってくる。


「公演、大成功って、こっちの新聞にも載ってたよ。 すっごいね~。」


美咲は八神の上着を受け取ってハンガーにかけた。


「ん・・。 ほんっと。 まだ、身体に染み付いてるっていうか。」


八神はふっと微笑んだ。


「そう。 ・・よかったね、」


「うん、」





「慎吾、おふろ沸いたよ・・」


寝室に戻った八神に声をかけたが、八神はベッドに服のまま気持ち良さそうに眠っていた。


「あれ・・寝てる。 も~、しょうがないなあ・・。スーツ、皺になるって、」


美咲はベッドの端に腰掛ける。


それでも



すっごい


幸せそうな顔しちゃって。



こんにゃろ~


心なしか


笑ってるし。





よかったね。


慎吾。




慎吾のやりたいこと見つかって。


あたしは


そうやって楽しそうに


仕事をしてる


慎吾の顔を見るのが


大好きだよ・・。



そっと彼のやわらかい髪をなでた。



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