第75話 心の距離(1)

八神はそのあとたまっていた事務処理をして、家の最寄駅についたのは9時過ぎになってしまった。


「あ、美咲?」


そこから美咲に電話をした。


「今、駅についたんだけど、おまえ今家にいるの?」


「うん、いるよ。 あ、もう出張から戻ってきたの?」


「おみやげあるから。 ちょっと寄る。」


と言うと美咲は嬉しそうに


「うん!」


と返事をした。




「え、なに・・牛タンじゃないの?」


「なんか適当なのがなかったんだよ。ちゃんと『萩の月』は買ってきただろ。」


「笹かまかあ・・」


「おまえおれの好意を無駄にする気か?」


ネクタイを少し緩めながら美咲をジロっと睨んだ。


「ウソウソ。 うれしいって。 これつまみにビール飲んじゃおうかなあ。」


「なんかちょっと腹減ったかなあ・・」


八神は勝手に美咲の家の冷蔵庫を開けた。


そして残り物を手早く取り出し、ささっと料理を作り始めた。


「ほんっと慎吾ってこんなに料理の才能あったんだね。 びっくり。」



彼が今残り物で作ったチャーハンを食べながら美咲は感心しきりだった。


「学生の頃は金がなかったからさあ。 安くてうまいもの作るのに必死だったし。」


八神もそれをパクついた。



あたしの


知らない慎吾だ。


美咲はクスっと笑った。



八神はきちんと食器まで片付けて、


「んじゃ、帰る。」


と仕度を始めた。


美咲は反射的に


「の、飲んでかない? ちょっと。」


と言った。



八神は少しだけ考えた後、


「ん、やっぱ帰る。 さすがに仙台から戻ってきてから仕事だったから、疲れた。 帰って風呂入って寝る。」


と笑う。



あたしのこと


好きじゃなくてもいい


一緒にいたいのに



美咲は切なくなった。



ここで彼に抱きつけば泊まってくれるだろうか・・



「じゃあね。 おやすみ。」


八神は笑顔で部屋を出た。



自分の子供っぽい気持ちを


八神に悟られるのも


嫌だった。




ふたりの関係は


進むわけでもなく


後退するわけでもなく



時間だけがただ過ぎてゆくだけだった。



11月に入り、事業部も忙しさを増してくる。


南が外出から戻ってくると、



「だから意味わかんねえって言ってんだよ! おまえがなあ、毎回毎回おんなじようなバカみたいなミスをする意味が!」



斯波の罵声が耳に飛び込んできた。



斯波の前には肩を落としてうな垂れている八神がいる。


「なんで毎日やることをチェックするっていう基本的なことができねえんだよ! だいたい、何の理由もなくだよ? ただ忘れたっていう理由だけでこんなポカをするのがおれには全く理解できないんだよっ!! おまえ、ほんっと向いてねえんじゃねえの。 何でもどうにかなると思ったら大間違いだからなっ!」


そこにいたみんなもいたたまれなくなるくらいの叱責だった。


斯波は普段から無口で、こうして感情的になって怒ることもほとんどないのだが、もう30分も八神を叱り続けていた。



「本当に・・申し訳ありませんでしたっ!!」


頭を下げる八神に、斯波はもう無視しかしなかった。




「どうしたの・・?」


南はそこにいた玉田にコソっと囁いた。


「ああ・・来年の3月の四重奏のコンサート。 仮押さえしていたホールを、八神が契約しに行くのを忘れちゃって。 ダメになっちゃったんですよ。 もうそれで概要を作っちゃってるんで、印刷物も変更しないと、」


玉田は渋い顔で言った。


「そっかあ・・」


南はデスクに座ってしょぼんとする八神に声もかけられなかった。





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