第58話 自分の音(1)

情熱を失いかけていてあたしの心を


ぐいっと引っ張り挙げてくれたのは



この


彼のピアノと


間違いなく


八神さんの存在だ。



ヴァイオリンに夢中になるあたしを


一生懸命支えてくれて




どんな無理を言っても


嫌な顔


ひとつしないで。


あたしのために。




ああ、この人のようになりたい。




音でたくさんの人を感動させる


そんな仕事をしていきたい。




麻由子の涙は


泉のように


あとから


あとから


溢れてきて



とめどもなかった。




アンコールを終えて、真尋は舞台の端から端まで走って行ってまた、オーバージェスチャー気味に投げキッスをして観客を笑わせた。




そして


舞台袖で待っていた絵梨沙をぎゅっと抱きしめる



いつもいつも


彼の公演の最後には



こうして待っている絵梨沙を抱きしめてキスをする。


もうそれは


当たり前の光景で




絵梨沙との抱擁を終えた真尋は八神のほうに歩いて行って、今度は彼に抱きついた。



「わっ・・・」


188cmの巨体にいきなり抱きつかれてよろめいた。




「八神~~!! どーだった?」


興奮気味にそう言う彼に



「・・ほんと、いつ聴いても。 胸が震えます、」


声を詰まらせながらそう言った。




「またハンバーグ作って!」


子供のようにそう言う彼に



「はい。 喜んで。」


ニッコリと笑った。



「とろっとろの目玉焼き乗せてね。」


真尋はそう言うのも忘れなかった。




なんだか


体中の力が


いい具合に抜けて


ものすごく軽くなった気がした。


ものすごく爽やかな気持ちで。




八神はホールからの帰り道、夜空を見上げる。





もう


秋の月だと


一見してわかるほど


それは


ひんやりとした輝きで。





メールが着信した。





『真尋さんのコンサートにうかがいました。 あの人の音を聴けば聴くほど。 あたしの中の何かが突き動かされていきます。 それが何なのか。 わかりませんが。 だけど、今はヴァイオリンを弾きたい。 真尋さんのように


音をひとりじめしたくて。 コンクールの結果なんか考えずに、あたしはヴァイオリンが心から好きだから。 一生離れたくないって、そう思いました。』




彼女の気持ちが


痛いほど伝わる。




真尋さんは


ピアノが大好きなんだ


その気持ちを


みんなに伝えられる才能がある。




それは誰でも持っているものではなくて



きっと


彼女もそれを


『持ってる』って


おれは信じてるから。

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