第9話 魅せられて(1)

真尋が神経を集中し始めると、家ではなくスタジオに篭って練習することが増えた。


いや

ほとんど生活の拠点がスタジオになってしまい、

仮眠用の布団まで用意してあった。


「真尋さん、少し休憩をしましょう。 夜食を持ってきましたから、」


八神が手作りのヒレカツサンドを持ってきたが、ピアノに入り込んでいる真尋は彼が入ってきたことにも気づかない。


ベートーヴェンの

ピアノソナタ第21番『ワルトシュタイン』



すっげえなあ。

なんだろ、この音・・。



八神はぼうっとそこにあった椅子に腰掛けた。



どんな無茶を言われても

これ聴いたら

もう

怒る気にもなれない。


あ~

このまま

天国に行っちゃいそう。



どんどん

気が遠くなってきた。



ドサっという音がして

真尋はハッとした。



後ろを振り向くと、八神が椅子から落ちて倒れていた。


「八神?」

慌てて彼に駆け寄った。


「おい!」


それでも

持ってきたカツサンドはしっかりと胸に抱きしめていた。




「は? 倒れた??」

南は電話を受けて驚いた。


「そーなんだよ! なんっか急に! 救急車呼んだんだけどさあ、」


「落ち着いて! 意識は?」


「もうなんか白目になっちゃって!」


「あたしも今行くから!」

南は大急ぎで出かける支度をした。



う~~~~~ん。


八神は重い重いまぶたを開いた。

ぼんやりと

天井が見える。


しかも

見慣れぬ。



あれ?



「あ、気がつきましたか?」

その優しい声にふっとその方向を見やる。


「絵梨沙・・さん?」


「よかった。 ずっと眠りっぱなしだったから、」

彼女の笑顔が見える。


「あれ? おれ・・」


状況を把握すると

ここが

病院だということがわかった。


「過労だそうです。 お医者さまが点滴を打ってしばらく安静にするようにって。」

腕に点滴の管がついていることにも初めて気づいた。



「倒れたんですか? おれ、」

それさえもわかっていなかった。


「ええ。 真尋のスタジオで。 それで慌てて救急車に連絡して。 本当にごめんなさいね。 真尋のせいで、」


絵梨沙は申し訳なさそうに八神に謝った。


「そんな・・。 そんなこと、ないです。」



そこに

「あ、気がついた?」

南が入ってきた。


「南さん、」


「ほんと死んだみたいに眠ってたからさあ。 死んじゃったかと思った、」

能天気にそう言って笑った。



ああ、そっか

おれ

真尋さんのピアノ聴いてて。

このまま

天国に行ってもいいなあってくらい気持よくて。



ほんっと

天国に行くトコだった。



そう思うとおかしくなってきた。


そして、ハッとして、


「えっ! 今日、何日ですか? 真尋さんのリサイタルは?」


慌てて起き上がり、まためまいを起こしてふらついた。


「ほらほら。 無理しないで。 もう昨日終わっちゃったよ。 あんた丸2日間寝っぱなしやったし。」


2日も!?


それにも驚きだった。


「え~~~? 終わっちゃったんですかあ?」


「そう。 も、すっごくお客さんも喜んでくれてさあ。 盛り上がったし。」


「なんだ、も~~~。 おれも聴きたかった、」

本音を口にした。



あのわがままについていけたのも

あの人のピアノを聴きたい、それ一身だったのに。



「でも、それも八神さんのおかげです。 真尋ね、八神さんが倒れた時持ってたカツサンドもすっごい美味しいって言って。 たまに外食なんかしてもね、『八神が作ったメシのがうまい。』っていつも言ってるし。」

絵梨沙はニッコリと微笑む。


「そ、そんな、おれなんか。」

八神は大いに照れた。


「ほんまごくろうさん。 よう頑張ったなあ、」


南は八神の頭を撫でた。

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