2-6.忘却

 尻込みと妥協の上で触れた部位だったが、それでもセノンには充分に衝撃的な接触だった。



(やわらか…)



 指先に伝わる感触に、何とも言えない感情が沸きあがってくる。

 一度指を離すと、指先が燃えているかのように熱い。

 カイオはまだ目を覚ます様子はなかった。


 衝動的に再度手を伸ばし、今度は掌全体でお腹に触れる。

 掌全体に吸い付く肌の感触に、思わず掌全体で撫でてしまう。

 柔らかな肌の下に十分な腹筋が付いているせいか、僅かに力を込めると返ってくる感触が心地いい。



「んっ…」

「!!」



 カイオから漏れた声に驚き、セノンは素早く手を放し硬直する。

 心臓が破裂しそうなほど早鐘を打っている。


 しかし、カイオは軽く身じろぎしただけで目を覚まさなかった。

 起きて止めてくれなかったことが残念なような、ほっとしたような、複雑な感情にセノンは支配される。


 しばらく待っても起きてこないことを感じ取り、セノンは再度手を伸ばす。

 もう一度触りたい、という気持ちが抑えきれず、その衝動のままにカイオの素肌に再度指先で触れた。



(やばい…)



 これ以上やると気持ちの高ぶりが抑えきれなくなりそうで、指先で触れたままぐっと堪える。

 だが治まらない。

 もっと柔らかいところにたくさん触れて、もっと肌を見たいと考えてしまう。



(いやいや…ダメだ…)



 目的が変わっていることに気付き、名残惜しくも手を引っ込める。


 しかし、やはりもやもやとした気持ちが残る。

 この機会を逃すと、もう二度とこんなチャンスはないかもしれない。



(ちょっと見るくらいなら…)



 へそのあたりから目を離せなくなり、諦め悪くもゆっくり腕を伸ばす。

 服を摘まもうかと考え、指を伸ばしたところで不意に視線を感じた。


 はっとして顔を上げると、カイオが目を覚まし、いつもの薄い笑みを浮かべながらセノンのことを見ていた。



「…っ!!?」



 思わず思いきり仰け反り離れようとするが、いまだにカイオの手ががっちりとセノンの腕を掴んでいるため出来ない。少し距離が離れただけに留まった。



「いいい、いつから起きて…!?」

「…たった今ですよ。ふと目を覚ましたら、何やら熱い視線を感じまして」



 カイオは身を起こし、愉快そうにセノンの問いかけに答える。



「起きてみたらセノン様の手がこちらに伸びてきていたので、面白いなぁと眺めていました」

「い、いや、これは」

「なんですか?…触りたいんですか?私の体に自分から触れたがるなんて、初めてですかね」



 カイオのからかうような声音に、セノンは死にたくなる程に恥ずかしくなった。

 最悪だ。

 しかしどうも、寝ている間に触れてしまったことは気付かれていないらしい。



「っち、違うよ!」

「じゃあ見たいんですか?」

「…だから違うって!」

「ではなぜあんなことを?」

「いや、それは、服が乱れてたから直そうとして…っていうか、なんでそんな恰好してるんだよ!」



 セノンは誤魔化すように、カイオの格好を指摘する。

 カイオは何でもないことのように、片膝を立てて足を晒して見せた。



「ああ、これですか。セノン様を連れ帰ってからお酒を嗜んだところ、ちょっと着替えがめんどくさくなりまして。そのまま寝てしまいました」

「そっそうだよ!なんか今日お酒くさいし!カイオ酔っぱらってるんだろ!」

「私がこの程度で酔うわけがないじゃないですか」



 カイオは意地悪く、くすくすと笑って見せる。


 確かにおかしな言動などはなく、気持ち饒舌に感じる程度だ。

 ただそれも、セノンをからかうときと正直大差ない。



「むしろ、酔ったのはセノン様の方でしょう。つぶれているのを見つけて、ここまで運ぶのに苦労したんですよ?」

「そ、それは…」



 切り返された言葉に、反論出来ない。

 セノンが迷惑をかけたのは事実だ。



「大変だったんですよ?背負う私の体をあちこち触ってくるし、ようやくベッドに入って寝たかと思えば急に起きて酒を飲む私に一緒に寝ろと強要してきますし、一緒に寝たら寝たでまた好き勝手に体中まさぐってきますし…」

「うっ嘘だ!それは絶対嘘だ!!」



 カイオのわざとらしい声に反論する。

 記憶はないが、自分からそんなことはしていない、と思いたい。

 なにより、こういう時のカイオの言葉はあてにならない。



「そう思いますか?でも、現にさっき触ろうとしてたじゃないですか」

「だ、だからあれは…!」

「まあ、いいんですけどね。セノン様が望むなら、体を触らせるくらい」

「いや、」

「――まさか、私が寝ていて何も分からないうちに、べたべた体に触れたりしたのですか?まるで、どこぞの淫売のようですね。心優しいセノン様に限って、そんなことはしないかと思いますが」



 カイオは僅かに目を細めて、ふとなにかを思い出したかのように言い放った。

 その心の内を見透かすかのような視線、そして微かな、しかし明確な怒りがこもった声に、セノンは戦慄した。


 実際のところ、その怒りはセノンに向けられたものではなかったが、セノンにはそこまで分からない。

 ただ途中の言葉の意味は分からずとも、込められた苛立ちだけは理解してしまった。



 そして急激に、自分のやってしまったことを後悔する。

 愛し合っているわけでもない異性にあんなことをされて、気分を害さない女性がいるはずがない。


 自分のやったことに気づかれたら、カイオに軽蔑され、嫌われてしまうかもしれない。

 ただただそのことがセノンは怖くなった。


 ひょっとしたら、もううっすら気付いているのかもしれない。

 今はまだ確信していなくとも、ちょっとしたきっかけで感づかれてしまうかもしれない。


 一時的な衝動で、馬鹿なことをしてしまった。セノンは激しく後悔する。



「そんな、こと…」



 思わず顔を背け伏せながら、なんとか声を絞り出す。

 セノンは自覚しなかったが、声は震え、か細い。恐怖と後悔に、知らず知らず体が震えていた。



「…」



 セノンのそんな様子を見てカイオは何かを察し、僅かに苛立ちを滲ませていた表情を消した。

 そしていつもの薄い笑みを浮かべ、震えるセノンの体を優しく抱き寄せた。



「あ、カ、カイオ…?」

「すみません、冗談です。別にちょっと触られるくらい、私はなんとも思わないですよ」



 カイオはそう言って、安心させるようにセノンの背中を優しく叩く。



「少し個人的なことで苛立ちがあって、それを無関係なセノン様に見せてしまいました。申し訳ありません」

「そんな、カイオが謝ること、なんて…」

「何があっても、私がセノン様を嫌ったり、愛想を尽かすことなんてありえません」



 カイオのひどく優しい声に、セノンは言葉を失う。

 その声は乾いた砂の中に水が注ぎこまれたように、セノンの強張った心に染み込んでいき、潤した。

 しかし、そんなカイオを裏切るひどいことをしたという罪悪感は消えず、チクチクと胸が痛む。



「さあ、もう寝てしまいましょう。明日も早いんですから」

「えっ…でも、それなら一人で…」



 セノンの言葉を待たず、カイオはセノンを抱きしめたまま横になり、毛布を被る。

 まるであやされる幼子のようだとセノンは感じた。

 急激に恥ずかしくなりながらも、強く拒否することが出来ない。

 第一、罪悪感を抱えたこんな精神状態ではとてもすぐに眠れそうにない。



(あれ…)



 しかし、緩く抱きしめられ、頭を優しく撫でられることであっという間に心が落ち着いていく。

 さっきまでの後悔で強張った体がほぐれ、日中の緊張が染み出し、頭がぼんやりしてくる。


 頭を撫でる手に指輪の感触を感じながら、セノンはすぐに意識を溶かした。





(う…?)



 朝、セノンは自然に目を覚まし、うつ伏せのままベッドの中で目を開いた。



「おはようございます、セノン様」

「……おはよぅ…」



 ベッドの中でそのままぼうっとしていたセノンに、カイオの挨拶の言葉が掛けられる。

 セノンは半分寝ぼけたまま、返事を返す。

 声を掛けたカイオは、既に身支度を終えいつもの男装姿になっていた。



「うん…?」



 身を起こし部屋の中を見渡すと、自分のベッドに一人で寝ている。

 そこに何か、違和感を覚えた。



(昨日、なにか嫌なことがあったような…)



 もやもやする気持ちに従い、昨夜の記憶を掘り起こす。

 夜中に一度起きたような気がする。

 しかも信じがたいことに、カイオの体を触ったり、見ようとした覚えまである。



「ええ…嘘でしょ…」



 自らの記憶を訝しみながら、思わず呟く。

 すっかり冷えた頭は記憶の中の興奮や衝動を一切思い出すことが出来ず、自分のしたことに実感が湧かない。

 夢の中の出来事のように、現実感がなかった。



(ひょっとして、夢に見たことが記憶とごっちゃになってる?夜中の記憶は全部夢…?)



 改めて部屋の中を見渡すと、記憶にあるお酒の空瓶や匂いもない。

 ベッドも、自分のではなくカイオのベッドで寝ついた記憶があるのだが。

 そのことが、さらに疑惑を強める。



「目が覚めたなら、早めに身支度を終わらせて下さいね。今日はまず修理屋に行く必要がありますので」



 カイオの様子はいつもと変わらず、昨日何かあったようにも見えない。

 いまいち自分の行動が信じられないセノンは、思い切ってカイオに問いかける。



「あのさ…昨日の夜中に、何か話したっけ?カイオも起きてたような気がするんだけど…」



 セノンの恐る恐るの問いかけに、いつも通りの薄い笑みでカイオは答えた。



「何も話していませんよ?私はずっと眠っていました。夢でも見たんじゃないですか?」

「そっか…なら、いいや」



 カイオの答えに安心して、セノンはベッドから抜け出す。

 その後、身支度を整えて宿を出て、修理屋に装備を取りに向かった。



「おいおい、マジかよ…」

「昨日の真夜中だって?酷い話だな…」



 修理屋で装備を受け取った後。

 街中で消耗品の補充も終え、町をあとにしようと歩いていたところで、セノンの聴覚はふと住人たちの噂話を捉えた。

 なんとなく聞こえてくる言葉は不穏で、思わず耳を傾けてしまう。



「なんでも、煙草に火をつけようとしたら急に燃え上がったらしい」

「店も燃えたのか?」

「いや、店はボヤ程度で済んだらしい。店主も臨時収入が入ったから、そこは困ってないらしいが…」

「でもなぁ、一番の稼ぎ頭が顔を中心に全身酷い火傷ってのはなぁ…」

「命に別状はなかったらしいが、あれじゃ今後客を取るのはちょっともうな…」



 どうやら、昨日の夜中に街中で火事騒ぎがあり一人怪我人が出たらしい。



(なんだろう…なんか、嫌な感じ…)



「セノン様、どうかしましたか?行きましょう」

「…ごめん、今行く」



 カイオに声を掛けられ、セノンはその場を後にする。

 すでにセノンの記憶の中には、昨日酒場でよくしてくれた女性の名前は残っていなかった。

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