信じて神様・疑って悪魔・2
世の中には、信じる価値のある人とない人がいる。
長い間、そう思ってきた。
「麻衣、その人……きっと、待っても無駄だと、母さん思う」
ぽつり、とつぶやかれると、胸に響く。
でも、待つしかないよ……と言いかけて、母の行為に驚いて声を上げる。
「母さん、今、鍋に砂糖を入れた!」
「え? これは隠し味だよ」
「でも、三杯目」
五年ぶりに両親と暮らし始めて、正直疲れている。
母は、すこしボケが入ってきているらしい。
料理の味付けがおかしい。
何度も塩を入れてしまったり、出来上がった味噌汁に味噌を入れてしまったり、どうも一度やったことを覚えていないことがある。
「母さんは、少しボケているんだよ」
そういう父も、先ほど庭に水を撒いたばかりなのに、また水を撒こうとしている。
二人とも同じペースでボケているので、あまり深刻な感じはしない。
こうしてお互い、ボケているんじゃないの? と言い合いながら、ゆっくりと老後を過ごしている。
でも、やはりここに私の居場所はない。
ここは、父と母の世界だ。
仕事のストレスを持ち込んで、せっかくの料理に文句をいったりしてはいけないと思う。
やはり一人暮らしに——いや、二人暮らしに慣れた身には、親との同居は辛いものがある。
朝は起こしてくれるし、仕事から帰ってきたら晩御飯もお風呂も用意されているのだけど。
離れていた年月が長いから、食事の好みも全然変わってしまったし、ほっとすることができない。
確かに両親とは家族だけれど、私はもう充分に自立してしまっている。
自立した大人同士で生活するのは、親子だからこそ、妙に居心地が悪いのかもしれない。
せっかくの老後のゆったりした両親の生活を、何だか阻害しているような気がするのだ。
残業で十時過ぎるときは、一人きりでも外食して帰ることにした。
そうでもしないと、十時就寝が常の両親は、私だけの晩御飯のために夜更かししてしまうのだ。
「親との同居は楽でいい」
などと、結婚前の玲子は言っていたが、私にはどうも違うらしい。
親を嫌っているとか、頼りたくないとか、そんなことじゃなくて、きっと、生活パターンが合わないからだ。
わがままな私は、寂しがりやのくせに自分の不可侵域を確保したくてたまらないし、人のパターンに合わせて生活するなんて、きっとできないんだろう。
そう思うと、あんな身勝手な男だったのに、渡場と生活できたというのは、本当に不思議だった。
辛かったけれど、楽しかった。
不幸だったけれど、幸せだった。
言いようもない不安に日々悩まされていたけれど、安らいでもいたのだ。
もしも赤い糸の伝説というものがあるならば、やはり私の相手は渡場だったと思う。
彼じゃなければ、元々私の指には糸なんて掛かっていないのだ。
夜になると、渡場の胸が恋しくなる。
散々、私を甘やかせてくれる腕が欲しくなる。
少し高めの実家の天井は、渡場を押しつぶす天井に似ているのだろうか?
抱きしめる私がいなくて、寂しがってはいないのだろうか?
ベッドは広すぎるし、布団は冷たすぎる。部屋は、荷物で埋まっていて狭い。
電気を入れていない冷蔵庫や洗濯機まで持ち込んでしまったからで、とりあえず布をかけてある。
再び、渡場と暮らし始めるときには、きっと必要になると思うから処分できない。
捨て台詞で別れた相手を、信じて待つのは愚かしい。
渡場は、善人ではない。
でも、美しい言葉を連ねて裏切る男だっている。善人といわれている男でも、女を裏切ることはある。
はたして、万人に対して【善人】などいるのだろうか?
いい人という基準ほど、虚しいものはないのではないだろうか?
渡場がいい人だから、好きになったわけではない。
渡場は渡場だから、私は彼を愛している。
信じる価値があるか、ないかは、実は何も意味がない。
信じたいから、信じるのだ。
そして、ともに生きてゆきたいから。
私は、今夜もベッドにもぐりこみ、携帯に電話を入れてみる。
実家に戻って、もう二ヶ月。一度も繋がらない電話だった。
RRRR……
電源が入っていた。
今まで一度も、コールさえなかったのに。
心臓が早くなり、気が遠くなりそうだった。
このコールの音は、夢の中の音かもしれない……。そう思ったら泣けてきた。
「もしもし?」
渡場の懐かしい声が聞こえた。
「もしもし? 麻衣?」
少し甘い渡場の声。
私はじんわりと泣いてしまい、返事がすぐにはできなかった。
「もしもし? 麻衣? 泣いているの? ごめん……」
やや疲れた感じはするが、渡場の声は落ち着いている。
「ごめん。この電話、しばらく使っていなかった。他の電話を持っていてね、持ち歩いてさえいなかった」
どんなにかけても通じないはずだった。
「……うん、仕方ないよ。直哉、怒っていたしね……」
冷静に話をしたかったけれど、涙で声が詰まってしまう。
「俺、大人げなかった。ごめん。なんか、麻衣からの電話もきっとないだろうと思って、もう半分、捨てていた」
「直哉のバカ。私、信じて待っているっていったでしょ? 今だって、ずっと待っているんだから。私、しつこい女なんだから」
渡場の声が、聞こえなくなった。
何も言っていないのか、電波が悪いのか……判断がつかない。
「聞いているの? 私、直哉を信じている。信じているけれど、そんなに強い女じゃないから、たまには優しい言葉をかけてくれたり、応援してくれたりしなければ、くじけちゃうじゃない!」
電話の向こう、渡場は押し黙っていた。電波のせいだと思いたいけれど、きっとそうじゃない気がした。
自分から渡場の元を飛び出したのに、情けない言い分である。
今、私は親元にいる。今までならば、つい、すがってしまう渡場の手は、はるかに遠いのだ。
それが、これほどまでに辛いことだとは思わなかった。
「直哉のバカ! ちゃんとたまには電話をくれて、優しくしてくれないと、もう直哉のことなんて、待てない!」
「もう……待たないで……」
一瞬、携帯の音が途切れて、よく聞こえなかった。
聞き間違いかと思った。
「……え?」
「麻衣はもう、待たないでいい」
今度ははっきりと、渡場の声が聞こえた。
でも、私の頭は理解していなかった。
電話を当てた耳から、心臓から運ばれて全身を駆け巡る血の、激しいドキドキという音だけしかわからなかったのだ。
わたしは、震える声で再び聞いた。
「え? 聞こえない。どういう……こと?」
ふう……と渡場が息をついたらしい。
ざわりとするような風音が電話越しに響いて、産毛を揺らすように感じた。鳥肌が立った。
「今日、離婚届に判をもらった」
感無量……とは、このことを言うのだろう。
気が遠くなるほど胸がつまった。
突然、渡場との出会いから、別れまで、一気に頭の中に蘇って、もう何もいえなくなっていた。
抱き合った夜、慰めあった朝、喧嘩した日々、すべてすべて。
「麻衣に電話しようと思って、この電話を探し当てたところだった。麻衣は、俺を信じて待っていてくれたんだね。ありがとう」
「……」
「俺は長い間、麻衣は俺がいないとだめだと思っていた。でも、俺にも麻衣が必要だ」
「……」
「明日、仕事が終わったら迎えに行く」
「うん……」
やっとしぼりだした声に、渡場はほっとしたらしい。
「俺は、あまり人を信じない人間だったと思う。だから、誰にも信じられていなかったとも思う……。でも、麻衣が俺を信じてくれるって、信じられるようになって……初めて、俺自身を含めて、人を信じることが出来るようになった」
電話の最後に、渡場はゆっくりと囁くように言った。
「俺は、麻衣を尊敬してる」
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