信じて神様・疑って悪魔

信じて神様・疑って悪魔・1


 出て行って以来、渡場は携帯電話の電源を切ったままにしている。

 私は毎日、約束したとおりに電話をしている。

 初めのうちは、何度も何度もかけなおしたけれど、やがて虚しいので一日一度だけにしてあきらめることにした。

 渡場の荷物は宅急便で送った。一応、電話が欲しいと手紙を入れた。

 うっかりバーベルを入れ忘れていることに気がついた。仕方がないから、実家まで持っていくことにした。


 六月は爽やかな季節だ。

 天気はいいけれど、風が冷たい。

 


 親が持ってくる見合いの話は、すべて断った。


「心に決めた人がいる」


 はっきりと両親には言った。

 父は、早く紹介しなさい、とせっつくが、母は悲しそうな顔をしただけだった。

 家では自分の居場所もなく、仕事から帰ってきて家事を手伝い、部屋にもどっては、ぼっとする。

 渡場のバーベルは、少しは役に立っている。

 右腕に筋肉をつけなくてはいけない。無理しない程度に、持ち上げる練習をしている。


 仕事は少しだけ順調になってきた。

 あのバイヤーとは気が合わないけれど、気が合わない同士、避けて仕事をするようになって落ち着いている。

 チームワークがないのは困るけれど、喧嘩してお互い苛々するよりは、精神衛生上いい。

 そのほうが仕事にも悪影響を与えないものだ。

 それがまずいというならば、会社が再び人事異動を命じればいい。


 

「見合いとか、したほうがいいんじゃない? その傲慢自信過剰男、絶対にもう別の女を作っていると思うよ。それにさぁ……。そこまで恥をさらして、麻衣を引き止めて引きとめ切れなかったんだから、プライドボロボロでしょ? かわいさあまって憎さ百倍かもよ?」


 祥子は、どうもこの時季チュー梅酒が気に入るらしい。梅をボリボリ食べている。

 失恋すると必ず見合いをする……というのが、祥子が見つけた『麻衣の法則』である。


「うん、でもね。これは失恋ではないと信じる」


 今日はホッケが入っていない。仕方がないからニシンを食べている。小骨が多くて食べにくい。


「まぁねぇ。一緒に住んで一年半? すぐに忘れろ……ってたって、無理よね。でも、時間は流れてゆくし、季節も移り変わっていくものだから、麻衣も意固地にならずに、たまには安全パイとの将来とかも考えてみたら?」

「……ちょっと、それは無理」

「ひえ、かわいそうな安全パイ」



 会社が離れてしまったのと、私が実家に帰ってしまい、夜遊びができないのとで、杉浦と会うことは減っていた。

 ただ、時々事務所の近くの支店に用事があるらしく、偶然鉢合わせることがあって、その時はいっしょにビールなどを飲んだりした。

 もしかしたら、鉢合わせるように工夫していたのかも知れないが。


「実家に帰ったなんて……びっくりだなぁ。もしかして、結婚とか決まったとか?」


「いや、まだ」


 杉浦は、いいにくそうに聞いてくる。


「あの、渡場さんとは……別れたんでしょ?」


「いや、たぶんまだ」


 もう家に帰ってから一ヶ月近くたったが、渡場からの連絡はなく、やはり携帯は繋がらなかった。

 ふられてしまった……と思うほうが正しいのかもしれない。


「この間さぁ、偶然映画館の前で渡場さんをみかけたんだけれどさぁ……」


 ふーん、と平然を装うつもりだったが、さすがにジョッキを持つ手が震えた。


「驚いたことに、子供を連れていたよ。あの人も、やっと普通の親に落ちついたんだと思ったよ」


「あぁ、そう……」


 わざと興味なさそうな返事をすると、杉浦が諭すように畳み掛けてきた。


「白井さんと別れて、やっとまともな生活に戻ったんだよ。だから、白井さんも、今後を真剣に考えたほうがいいよ」


 つまりは、杉浦のような人物との結婚を考えろ、ということなのだ。それは無理である。


「私は、とっても真剣に将来を考えているよ」


 ビールはひたすら苦かった。




 久しぶりに玲子と外で会った。

 時間が取れた、ということで、お昼休みに喫茶店で話をした。

 ここしばらく電話もこなかったので、何かあったのでは? と心配だったが、彼女は元気だった。

 チノパンにTシャツ、その上にカーディガンという格好は、玲子の完璧なキャリア・ウーマンぶりからは想像できなかった。

 元々老けて見えるタイプだったが、結婚するとここまでおばさんになるとは驚きである。

 とはいえ、笑顔は明るい。目の下に細かな皺をたくさん作って笑っていた。


「私、ここしばらく忙しくて、大変だったの……」

「いったい、何があったの?」

「実はね、お義母さん、あたっちゃって……」


 なんと、あの元気だった老婦人が、脳卒中で倒れてしまったというのだ。

 玲子は、しばらく付きっ切りで看病とか、家のこととか、病院との決め事とかで、かなり忙しかったらしい。


「本当……私、正直言って、ざまぁみろ! って思うくらい、お義母さんとうまくいっていなかったの。でも、何か倒れてしまうと、急にかわいそうになってきてね。ダンナも、今までは私のことをかまってくれなかったし、味方になってくれなかったんだけど、おろおろしちゃって、玲子がいなきゃもうだめだって……」


 憎かった姑も、お世話をしているうちに愛着がわいてしまったらしい。玲子曰く、かわいいのだそうだ。

 マザコンで何もできない夫は、きびきび働く玲子に、すっかり頼りきりらしい。元々、玲子は頼られるとがんばって、本領を発揮するタイプなのである。

 あっという間に、玲子は家を仕切る奥様に格上げになった。

 そのうちにあのマザコンは、玲子に「アイスコーヒーにシロップは入れますか?」などと言い出し、玲子も「ええ、お願い」などと言うことになるかもしれない。


「それは大変だったわね。でも……よかったね」


「うん、やっと最近になって、結婚してよかったと思えるようになってきた」


 人間は不思議である。玲子は幸せそうだった。




 私は、今夜も電話する。

 そして、電源が入っていない……のメッセージを聞く。

 時間だけが過ぎていって、私の周りは変化してゆく。

 渡場から貰った電話は、渡場専用だった。彼が支払い続けている。

 私は、私用の別の携帯電話を持った。携帯もかなり値段が下がって、渡場以外の知り合いも持つようになったし、仕事にも便利だった。

 でも、まさか電話代をすべて渡場に払わせるわけにはいかない。だから、新しい携帯電話を買ったのだ。

 新しいほうも手に馴染んできて、今は渡場用の携帯電話のほうが、扱いにくいくらいだ。

 そのように、人は現状に馴染んでゆくものなのだろう。


 待つ・信じる・愛している……。


 でも、正直くじけてきている。

 渡場から貰ったこの電話が、支払いが滞って止められるようなことがあったら……。


 その時は、もう。

 それが渡場の返事だと受け止めよう。

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