桜散る・5
一通り落ち着いた生活を捨て、新しい自分として生きようとするのは、とても難しいことだと思う。
それは、渡場の妻が、たとえどうしようもない夫だとしても、失いたくないのに似ているのかもしれない。
私だって、渡場との生活を捨てることは、決意だけでは乗り切れない。
優しい声を聞いてしまったら、ふらふらと戻ってしまうと思う。
だから、退路は断った。
押入れにしまいこんでいたものは、ほとんど不要だと思われたから、ゴミ袋に突っ込んで捨てる。
服も処分しよう。昔の友人からの手紙やはがきも……住所は写した。やはり処分しよう。
一人暮らしのわりに家が広かったから、いらないものが溜まってしまった。
全部捨てて、さっぱりしよう。
冷蔵庫とかテレビとか洗濯機は、また、すぐ使うからもって帰る。それから家具も。
五年間も住んでいた家だ。時々手が止まってため息をついてしまう。
捨てたものは、二度と戻ってはこないのだから。
渡場が帰ってきて、私の大掃除に目を丸くしていた。
「いったい、何している? どういう風の吹き回し?」
古本屋に売ろうとしている本をまとめて、私は汗を拭いた。
「直哉、私……実家に帰ることにした」
渡場は、すぐにその言葉を飲み込めなかったのか、きょとんとしている。
「え? どこかに引っ越すの?」
「うん、実家に帰るから」
「……」
その言葉の意味を、渡場はぐるぐると考え、そして最悪の結論を出したらしい。
「俺は……どうするんだよ」
「離婚が成立したら、迎えにきてね」
できるだけ明るく言った。
これはけして別れではない。渡場を失ってしまうと思ってできなかった、一時的別居だ。
だが、渡場にとってはそうではなかった。
「何だよ? それって……俺を疑っているのか?」
「違うよ。直哉が離婚して迎えに来てくれることを信じるから、帰るの」
「そんなの、信じない!」
渡場は、私の目の前にできた本の山を叩き崩した。
バラバラと大きな音を立て、本が崩れて散らばった。
「麻衣は、俺を疑って……見捨てて家に帰って見合いでもして結婚しようと思っている」
大好きな本のページが破れてしまって、私は悲しくなった。
でも、再び本を積み上げる。できるだけ、泣かない。これは別れじゃない。
「直哉も私も直哉の奥さんも、このままだと幸せじゃないんだよ。だから、仮の幸せは捨てようよ。私たちに一番いいことは、直哉がちゃんと離婚して、私と一緒に生きることだよ」
本を拾う私の手を、渡場はとった。
「麻衣、よく考えろ。俺は、この生活を守りたい。だから、ちゃんと離婚だってするつもりだ。麻衣が今、俺を捨てるのはよくない」
「捨てるんじゃない。いつまでも待っている」
「違う! 麻衣は俺から逃げようとしている」
さすがに、渡場の辛そうな顔を見るのは忍びない。私は、渡場の視線を避けて、再び本に手を掛けた。
「麻衣、もう一度言う。俺は、去っていく女なんて、追わない。だから、ちゃんと考えて言え。帰るのはやめろ」
「……もう、大家さんに出るって言っちゃった。今月中に出なくちゃ……」
渡場が押し黙る。
やっと本に紐を掛けることができた。次は、雑誌類をダンボールに入れて捨てよう。
ほんのすこしだけ、雑誌がボケて見える。目をこすった。
渡場のため息が三度聞こえた。
「麻衣……。お願いだから……俺をかっこ悪い男にしないで欲しい」
渡場の声が、蚊の鳴き声のように細くなる。
かさり……と、音がした。
振り返ると、渡場は座り込んでいた。
すがるような瞳で、私を見つめてていたが、やがて頭を垂れた。
そして、床に手をついた。さらに深く、頭を下げる。
垂れた頭が震えていた。
「お願いだ。俺を捨てないでくれ」
渡場のような男にとって、これほどの屈辱はないだろう。
誰にも本心からは頭を下げない傲慢な男だ。時に奴隷のように扱った女に土下座するなんて。
胸が痛んだ。
そんなことを望んではいなかった。
私と渡場は、お互い対等に生きていこうとしているのだから。
「直哉には、似合わない」
私は、渡場を抱き起こした。
そう……。
私は、傲慢でわがままな渡場が好きなのだ。
本当は、不器用にしか愛せない渡場が好きなのだ。
「私を信じて。私は、直哉と一緒に幸せになりたいの」
突然、渡場は立ち上がった。
目には、悲しみを通り越して憎しみが浮かんでいた。
「わかった! 俺はとんでもないバカだった。麻衣のような悪女に振り回されて、妻子を捨てようとしていたんだからな!」
それが本心なのか、それとも出まかせなのか……私には考えられない。
「直哉、私、待っている。別れなんかじゃないから。毎日、電話もする」
「待つなよ! 電話なんかするな!」
「待っている。何年かかっても待っているから」
渡場は苛々とあたりを見回し、そして、ポケットから合鍵を出して、私に投げつけた。
私の膝元で床に落ちて、カチャ……と微かな音を立てた。
まるで何か壊れたような音だった。
「麻衣、お別れだ! 俺の荷物は、送りつけてくれ! もう、二度と会わない!」
建物中が揺れるような、ドア音を残して、渡場は去っていった。
天井から、ほこりが降った。まるで、桜のようだった。
あたって砕けて……散ってしまったかもしれない。
いや。
私は涙を拭いて、荷物整理を続けた。
渡場は、ただ動揺しただけだ。
私たちが歩んできた道は、そんなにやわな道じゃない。
私は、渡場を信じている。
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