桜散る・4


 春が来る。

 桜咲く。


 渡場と私は、相変わらず一緒にいる。

 あの大喧嘩以来、喧嘩する勇気もなくなった。

 お互いを傷つけあいたくない。すべてをそっとしておきたい。


「俺は、麻衣と一緒にいる今が幸せだ」


 いつの間にか、渡場の言葉は変わっていた。妻との間の話し合いに疲れてしまったのだろう。


「直哉、愛しているよ」


 白々しいほどに、傷を埋めるように、ただひたすらに愛をつぶやく。

 ばかばかしいけれど、これが日常。ここまで愛を口にするなんて、ひたすら薄ぺらで軽くて吹けば飛びそうだ。

 でも、虚しいからやめられない。

 口にすればするほど、どんどん消耗してゆくのに、ただひたすらに愛を唱えるのだ。

 話し合いのことは、何も聞かない。

 私も……もう、疲れてしまった。

 ぬるま湯に浸かっているような、生殺しの日々が続いていた。



 渡場は、まったく妻の家には帰っていない。

 すでに、そこには渡場のものは何もない。

 渡場の知らないマンションで、妻は子供と母親とともに日々を過ごしているはずだ。

 でも。

 もしも、渡場が戻ったら、妻は彼を受け入れるだろう。

 かつて、誠心誠意の彼女のもとから、妻のもとに帰ってきた時のように、きりきりしながらも受け入れるだろう。

 渡場は、それを妻の愛と思うかもしれない。

 きりきりされるのを嫌いながらも、それを自分への愛ゆえと、どこかでほっとしているのだ。

 ふんぎれないのは、渡場も妻も一緒なのだ。

 妻の愛を信じたい渡場は、妻から離れられないのかもしれない。

 妻も、自分の理想を渡場に突きつけたまま、渡場を離さないだろう。

 それも、やはり愛の形なのかも知れない。


 たかが紙切れ……が、二人を強く結びつけていて、私の余地はないのかもしれない。



 買い付けの仕事で外に出た。

 神宮に近い場所だった。帰り、なんとなく神宮を歩く。

 いわば、さぼり……である。

 お正月に渡場と初詣に来た場所だが、今は桜の花見客でいっぱいで、あちらこちらからジンギスカンのにおいが漂っている。

 風でチラチラと桜の花びらがまう。

 私は神社でおまいりしながら、いろいろなことを考えていた。

 渡場とお賽銭を投げ込んだ昨年、絵馬で喧嘩した今年。来年は……ないかもしれない。

 今が幸せ……と、渡場はいうが、私はちっとも幸せでなかった。

 消耗しきって、もう薄っぺらになってしまった。

 何度も、渡場と別れて別の幸せを掴もうと思った。

 何度も、裏切られた、騙されていた、と思ってやめようとした。

 でも、私は、どうしても渡場と別れることはできない。

 

 私はどうしたらいいのだろう?


 ——所詮は短い花の人生。潔く散れ——


 私は足を止めた。

 境内の階段に、はらりはらりと桜の花が舞い降りていた。

 耳を疑って、振り向いた。

 空を覆い隠すような、枝を張った桜がある。

 風が吹くたびに花びらを落とし、おそらく明日には葉桜になるだろう。


 神様の声を聞いたような気がした。


 渡場と別れられない。

 そんなことで、くよくよ悩んで何をしてきたのだろう?

 涙が出てきた。

 花びらで彩られた階段がにじむ。

 別れる必要なんて、ない。

 渡場がいない将来に、幸せなんてあるはずがない。

 私は渡場と一緒に幸せになるべきなのだ。

 当然しごく一番自然で、あるべき形だ。


 欲しいものを言ってごらん……。言えない子はかわいくないよ。

 そう言われて泣いている小さな私の姿が浮かぶ。


 渡場に必要なのは妻ではない。私だ。

 妻に必要なのは渡場ではない。ふんぎりだ。

 不幸にしがみついていたら、いつまでたっても幸せなんかやってこない。

 誰に遠慮がいるだろう?

 私達に必要なのは、造花のようなきれいごとではなく、桜のような散り際だ。


 春の突風が吹く。

 心もとない花びらが、舞い上げられて吹雪となった。

 私は思わず、空を見上げた。


 突然、心が決まった。




 私は帰り道についた。

 途中、地下鉄駅の近くの公衆電話から、実家に電話した。

 母の声が、このような時間に? と、やや驚いていた。

 私は勇気を振り絞った。目をつぶり、一呼吸置く。

 この言葉を言ったら、もう今には戻れない。


「お願いがあるの。私、お母さんとお父さんを頼ってもいい?」


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