桜散る・3


 仕事というものは、よく出来たからといって褒められるとは限らない。

 集まりそうにないバーゲン品の手配をバイヤーに押し付けられて、私は泣きたくなっていた。

 無いです……と言い切る取引先に頭を下げ、何とか倉庫に案内してもらい、営業担当とともに探しまくった。

 そして、ゴミのような山から掘り出し物を見つけ出し、しかもよい条件で買い付けさせてもらった。

 我ながら、いい仕事が出来た。そう思っていた。


「いやぁ、白井さんの熱意に負けちゃいましたよ。ははは……」


 若くてハンサムな営業担当の、社交辞令とも取れるこの言葉に、ニコニコしたのがいけなかった。

 取引先が引き上げた後、バイヤーは私を個室に呼び出し、頭ごなしに怒鳴りつけた。


「勝手に仕事をして!」

「勝手……って、すべてを任せるとおっしゃったではありませんか!」

「A社だけは別。あそこはね、このことに恩を着せて、後でぐたぐた言ってくる会社なの! 何で私に許可をとらないのよ!」

「この件は、すべて任せるとおっしゃいました」

「口答えは許さないわよ! いい? ちょっと若い子におだてられたからって、いい気にならないでね!」


 結局は、それが原因らしい。

 自分がお気に入りのA社の営業担当とびっちり仕事をしたことが、彼女の逆鱗に触れたのだ。


「……申し訳ありません。今後は気をつけます」


 頭を下げたけれども、どうしても納得がいかなかった。



 今までだって、ひどい上司に当たったことはある。とはいえ、売り場には逃げ場がある。事務所にはない。

 接客にかこつけて避けることも出来ず、机を並べて仕事し続けなければならない。

 私は家に帰ったとたん、気が狂ったように泣き出した。

 今までもあのバイヤーには散々な目にあっている。

 自分がまだ仕事になれていず、至らないのだから……と、こらえてきた。

 でも、今回はひどすぎる。今まで溜まっていたものも含めて、私は爆発していた。

 バッグを投げ出して、ソファーに伏して泣き続ける私に、渡場は優しく髪を撫でてくれた。


 そして、一言……言った。


「麻衣、そんなに辛かったら、仕事やめろよ。俺が養ってあげるから」


 私は思わず頭を上げた。

 渡場の表情が、ものすごく幸せそうに見えてしまった。

 本当は、辛かったのかも知れない。苦しかったのかも知れない。

 でも、悪魔が微笑むように、きらりと白い歯が見えたのだ。

 渡場は、女を不幸にして幸せになる男だった。


「仕事……やめろ、ですって? 俺が養う、ですって?」


 本当は一番聞きたくてすがりたかった言葉なのに、あまりに非現実的すぎて、辛すぎた。


「直哉の……嘘つき!」


 私はボロボロ泣いていた。


「嘘じゃない。本当にそうしていい」


 渡場は、私の髪を撫で続けていた。

 


 ——養う? ですって?



 渡場は、まるでひものように居座っていた。

 私を養えるはずがないことは、すぐにわかってしまう。

 仕事をやめてしまったら、渡場に頼り切ってしまったら……私は一ヶ月で野垂れ死ぬ。

 ただの口約束だけで、この男に一生を左右されるわけにはいかない。

 だいたい……今の生活は、私の稼ぎで維持されているようなものだ。最近は、貯金すら取り崩している有様なのに。

 渡場は、時々お金を入れることもあるけれど、たいていは忘れてしまい、使ってしまってけろっとしている。あるだけ使ってしまう癖は治らないものだから、給料日前はすべてを私に払わせて当然な顔をしている。


 ——それを、養う? 


 妻子にいい顔をして大金を払い込み、自分は貯金もないというのに。

 ふつふつと怒りがわいてきた。



「直哉は……私の不幸が楽しいのよ」


 渡場の顔が、すこし驚いた表情になる。言っている意味がわからないらしい。


「直哉はね、自分のために女が不幸になると、うれしいのよ」


 さすがの渡場も、眉をひそめた。


「どういう……意味だ」


 絶対に口にしてはいけないことが、ボロボロとこぼれてしまう。


「私が不幸になればなるほど、直哉は愛されていると自覚できるから! 自分のために苦しむほどに、愛されていると思えるからよ!」


 渡場の日に焼けた顔が、土色に変わった。


「不幸な麻衣は、俺がいないとだめなんだって……あぁ、俺はなんていいヤツなんだろうって……。だから、私が不幸じゃないとだめなんだよ! 頼られているって思わないと、満足できないんだもの!」


 渡場の目が正気を保とうとして激しく視点を変えていた。


「俺は……そんな男ではない……」


「私の不幸がうれしいんでしょ!」


「……」



 渡場に、こんなことを言ってはいけない。

 愛に劣等感を持っている男だ。

 愛されないこと・愛せないことに、傷ついてきた男なのだ。

 どこかで理性が叫んでいたが、私の口は収まらなかった。


「私だけじゃない! 奥さんだって! 直哉は奥さんの愛を信じているけれど、ちゃんちゃらおかしいわよ! ただね、直哉は奥さんの嫌がることをして、困らせて喜んでいるの。彼女が自分のために不幸だと、愛されていると思えてきて、うれしいのよ!」


「妻は……俺を愛している」


 うわごとのように、渡場はつぶやいた。

 いまだにそのような確信を持っている渡場が、おかしかった。

 愛されているわけがない。

 愛されていたら、妻は私のところに殴りこんででも取り返しにくるだろう。


 愛されてなんかいない。

 渡場は……妻に見捨てられているんだ。


 私はあざけるように笑った。


「俺は……離婚するつもりだけど……あれが納得する形で、話をまとめたいと思っている。それが誠意だと……」


「誠意? 直哉が誠意なんて口にするの、本当に滑稽よ!」


 たまりにたまったものを吐き出すように、私は怒鳴り続けていた。

 今までの男が……悪魔たちが私をあざ笑ったように、渡場だって笑えばいいのだ。


 笑って、笑って、笑って。

 私を不幸にして、笑えばいいのだ。


「最後に言って御覧なさいよ! 俺は誠意ある男だから、愛を捧げてくれる妻を捨てられないって! 子供も大切だって! そうやって、一番切りやすい私を切ればいいでしょ? 直哉に情けをかけられるくらいなら死んだほうがマシよ!」


 いきなり、平手で殴られた。


 左手ではあったが、私の口をふさぐのには充分だった。

 潜在意識が働いて手加減したとはいえ、渡場は自分でも自分の行為に驚いていた。


 不安をいっぱい目に秘めて、私を呆然と見つめている。

 母が言っていた、女を不幸にする瞳で……。

 どんなに乱暴に扱ったときでさえ、渡場は私を殴ったことはなかった。

 渡場は、けして暴力に訴える男ではない。

 私はじんじん痛む頬に手を当てて、ぎっと渡場を睨んだ。


「麻衣……ごめん」


 渡場はおろおろと謝った。

 私は返事もせず、そのままバッグをひったくるように拾うと、ゴムボールのように走り出した。

 玄関を飛び出して、当てもなく夜の闇へと走り出す。

 本当は、自室に篭って泣きたかったけれど、そこには渡場がいる。

 渡場がいない世界へ行きたかった。


 


 家の近くは住宅街で、街灯は明るい。

 ただ、闇雲に走って、普段は通らないような河川敷に出た。

 日中はジョギングなどしている人たちであふれる場所だが、この時間は人気がない。

 正直、このようなところを歩いているのは、痴漢に会いたいといっているようなものだった。

 私は川に飛び込みそうな勢いで、この河川敷を走っていた。

 煌々と照らされる街灯で、晴れてはいても星などは見えない。

 息が上がってしまい、私は走るのをやめて近くのベンチに座り込んだ。


 私は寂しがりやのくせに、時としてたった一人で考え事をしたくなるときがある。

 家にいるときは、時にテレビも電気もつけないで、ただ闇の中に留まっている。

 実家にいるときは、時に押入れにもぐりこんで、母や父、姉妹、祖母から自分を隔離した。

 子供の頃、お仕置きで入れられた押入れが、思春期を迎えて憩いの場所になろうとは、自分自身でも笑ってしまった。

 押入れに入らなくなったのは、いつからだろう?

 押入れに入らなくても、この世の中には一人になれるところがたくさんあると気がついてからだ。


 背後にいきなりの人の気配。びっくりして立ち上がった。

 渡場だった。

 私は走ることですっかり疲れ果てていたが、普段から鍛えている渡場は、息の一つも乱れてはいない。

 逃げようとしたけれど、すぐに腕を掴まれてしまった。


「何で追いかけてくるのよ!」


 一人になり損ねて、悔しくてたまらない。興奮したままに叫んだ。


「麻衣が心配だから……に決まっている」

「心配なんか! いらない!」


 振り切って逃げようと大騒ぎしたけれど、力の差は歴然としている。

 おそらく、私が逃げられるとしたら、ここに見回り警戒中のパトカーが来て、おまわりさんに「痴漢です!」と訴えるくらいだろう。

 運がいいのか悪いのか、パトカーもおまわりさんもいなかった。


「麻衣、もう逃げなくていいから! あそこは麻衣の家なんだから、俺が出てゆくから……」


 渡場はそう言うと、ばたばた暴れる私を押さえ込み、堅く抱きしめて動けなくしてしまった。


 寒いわけでもないのに、渡場が震えている。

 まるで捨てられた犬ころのように、小刻みに震えている。


 私は、絶対に言ってはいけないことを言った。渡場を否定するようなことを言った。

 渡場にとっては、耐え切れない苦痛のはずなのに。

 私の言葉は真実かもしれない。

 誰もが愛だという愛を、渡場は知らない。そのように愛せない男なのかもしれない。

 でも、この献身は、不器用だけど渡場なりの愛の形だ。渡場独自の愛し方だ。


 私は、そんな愛に包まれている。

 私たちは、そのようにしてお互いを必要としている。

 他人から見ればまともではないかもしれないけれど、確かに愛だ。


「こんな危ない場所で……一人で泣かせてなんかおけないだろ? 俺が……出てゆくから」


 泣いているのは、渡場のほうだった。

 ひとりで生きてきた強い渡場は一人ぼっちの闇を恐れ、家族に包まれて生きてきた弱い私は一人になりたくて闇に篭った。

 私たちは離れられない。

 ぴったりと合ったパズルのピースのように。


 あっという間に後悔した。

 もうこんな風に泣かなくていいよう……幸せにしてあげたかったのに。

 すべてを受け入れてあげたつもりだったのに。

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