桜散る
桜散る・1
辞令をもらった時、ああ、ついに……と、思ってしまった。
売り場での仕事は、まったく変わらなくこなせるようになってきた。
しかし、何ヶ月にも渡って休み、復帰後もしばらくは戦力にならない状態が続いていた。
だから、売り場を追い出されても仕方がない。
「ばかだねぇ、考えすぎ。そんなことで、人事は動かないよ。ただね、商品部を強化したいだけだよ」
と、祥子は言ってくれるのだけど。
その祥子ともお別れになってしまう。
私は、三月一日付けでデパート勤務を離れ、やや郊外にある商品部に配属になったのだ。
まず、早起きに慣れなくてはいけない。
我が家からは遠い上に、交通機関は地下鉄とバスの乗継だ。渡場が送ってくれる日もあるが、さらに受け持ちの講義を増やしてしまった彼には、そのようなゆとりはない。
仕事は早くに終わるのだが、遠いので帰宅時間はデパート勤務の時と同じだ。
慣れない事務の仕事の上、担当もなんと『ベビー服』というとんでもない畑違いだった。
さらに悪いことに。上司のバイヤーが最悪だった。
独身四十五歳。派手目のキャリア・ウーマンで、ベビー服のバイヤーの前は、婦人服売り場を仕切っていた人である。
あまりにわがままなので、売り場を出された……という噂だった。
「ふん、会社もどうにかしているわよ。私のような子供もいない女に、何がベビー服よ。私は婦人服を担当して、初めて真価が表れるっていうのに!」
煙草をふかしながら、平気でこのようなことをわめいてしまう。そして私を見て一言。
「コーヒー!」
ちなみに、この商品部で部下にコーヒーを買いに行かせるのは、彼女しかいない。
ポンと机に出された百円玉を握り締め、私はいそいそと自販機に向かうのだ。
商品にも中々馴染めなかった。
私は子供が好きではない。だが、商品をサーチするために、週一回は子供服売り場にも立たなければならない。
苦手な子供に囲まれて、ストレスを溜め込んで、売り場で呆然と過ごすことになる。
そして、お客様の親ばかぶりに開いた口がふさがらないことが多かった。
ブルーのベビーカーを押しながら、異様な空気を漂わせた女が近寄ってくる。その空気を察した販売員は、微妙に立つ位置を変えて声を掛けられないようにするのだ。
捕まるのは、この売り場にまだ慣れていない私である。
「この肌着、アトピーが治るって聞いたから買ったのに、全然じゃない!」
どう考えても、私よりは十歳近く若い女だ。やせ細っていて、神経質そうで、目つきが尋常ではない。
「恐れ入りますが、アトピーが治るのではなくて、なりにくい、ということでして……」
「あら、そんなこと聞いていない! 私の子供、こんなになっちゃって、どうしてくれるのよ!」
なぜ、子供のアトピーまで人のせいにしたがるのだろう?
親は時に、子供愛しさで気が狂ってしまうらしい。
私が掛け算の九九を覚えた頃、この女はオムツをしていたくせに。なぜここまで頭ごなしに怒鳴られなければならないのか?
子供がいない私はさすがに親身にもなりきれず、ただガミガミと年下の女の罵倒を甘んじて受けるしかない。
申し訳ないなどとは思っていないが、申し訳ありませんを連発し、誰の接客かはわからない説明不足を侘び、頭を下げ、相手の気持ちが治まるのを待つしかない。
もちろん、いい人もいるのだが、私にはアタリが悪いのか、そういった人ばかりに捕まってしまう。
私はすっかり仕事で消耗してしまい、渡場に愚痴ってしまう日々が続いた。
思えば、渡場だって忙しい。しかも、話し合いを妻としているのだとしたら、かなりの精神的疲労が溜まっているはずだった。
でも、渡場はいつも優しかった。どんなに泣いて八つ当たりしても、よしよし……と慰めてくれる。
むしろ、私の注意がすっかり仕事に向いてしまったことで、責められているという被害妄想がなくなったのだろう。
気持ちが悪いほどの優しさで、私を包み込んでくれた。
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