不協和音・5
あれだけ『離婚』を連発していた渡場の口から、その二文字が姿を消した。
「話合いは進んでいる?」
などと、うっかり聞いてしまったら、たちまち不機嫌になるようになった。
「なぜ、そんなことを聞く?」
プイと背中を向けて寝ることも多くなった。
中々進まない話に苛々しているのか、それとも、離婚する気が失せてきたのか?
どちらにしても、私は不安になる。
それは渡場の誕生日に起きた。
奮発して黒毛和牛のステーキにした。
ワインも、お酒売り場の人にチョイスしてもらい、赤のヴィンテージを清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った。
チョコレートは、どうせ私が食べることになるから小さいものにしたけれど、プレゼントは時計にした。
小さなケーキに大きな蝋燭三本と小さな蝋燭五本を立てる。
高級レストランでのディナーとはいかないが、私の頭の中には、喜んでくれる渡場の姿しか思い浮かばなかった。
「直哉も三十五歳になったんだ。四捨五入したら、四十歳だね」
何気ないその一言が、渡場を苛々させることになったとは。普通考えつけというほうが間違っている。
初めは、片えくぼを作って笑っていた。笑っていたはずだった。
ところが、乾杯して飲んでいるうちに、どんどんと煙草の本数が増えていく。
食事の間は煙草を吸わないはずの渡場なので、何か嫌な予感がした。ステーキはまだ半分残っていた。
渡場は、煙たそうに煙草を吐くと、ついにぼそりと言い出した。
「麻衣は、俺に何を言いたいわけ?」
「え? 何? 何のこと?」
「四十歳が何だっていうんだよ」
どうやら、年齢相応にしっかりしろ! と言われたと思ったらしい。
渡場は苛々を抑えきることができなくなっていた。
「私、そんなつもりで言ったんじゃない……」
「そんなつもりだよ。麻衣はいつも、俺を疑っている。俺が、ただ、ふらふら遊ぶ男だと思っている」
何を言ってもどうせ口で負けてしまうから、私は押し黙るしかなくなる。
まったくくだらない。
なんて、心が狭い男なんだ! と、怒鳴り出してしまうそうな気持ちを、必死に抑えて黙るしかない。
「何とか言ったらどうなんだ!」
また、そのパターンだ。
私は、ただ涙を浮かべて渡場を見つめるしかない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
本当は、楽しくすごすはずだった、時間だけが……。
しばらく苛々と煙草を吸い続けて、気持ちが落ち着いてくると、渡場は仲直りのきっかけを探り出す。
それは……。
「水!」
私に命令することだった。
いつもは喜んで何でもしてあげる私だが、このような状況で命令されるのは絶対服従を言いつかった奴隷のようで、屈辱きわまりなかった。
それでも従うしかない。
渡場が、いつか私を信じきってくれることを信じるしかない。
悔しいけれど、好きなのだ。
従いたくないけれども、彼を傷つけたくはないのだ。
水をもっていくと、渡場はほっとして水を飲む。そして、手で合図する。
「おいで」
優しく抱き寄せられても、まったくうれしくは感じない。
渡場は、私を奴隷のように扱うことでしか、愛を確認できない。
悲しくて、虚しくて、そして……自分が惨めになって、涙が出てくる。
私が泣くと、渡場はますます安心できるのだ。
ますます優しくなってゆく。
「麻衣、もう泣かないで……。俺を信じて」
そう言い続ける渡場の荒れた心に、涙が止まらないでいる。
私の気持ちなんて、全然わかろうとしない態度に傷ついていることなど……この男は、ちっとも気がつかない。
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