不協和音
不協和音・1
新年は、波乱の幕開けとなった。
始まりは、つまらないことだった。
家に帰ってからすぐに初詣に出かけた。
徹夜マージャンで渡場は負けたらしく、ややご機嫌斜めだった。
無理に誘ったわけではない。でも、翌日から仕事が入っている私には、新年はそれほどゆっくるする暇もないのだ。
徹夜明けで疲れている渡場を、気遣って休ませてあげればよかったのだろうか? でも、渡場だって二つ返事で神社参拝を承諾したのだ。
道も駐車場も混んでいて、お互いに無口になりつつあった。
それでも、二人で昨年同様、お賽銭をした。
やっと、息がつけた。
神様に祈るというのは、やはり心が改まるような、新鮮な気持ちになれる。
空気は冷たいが晴れ渡っていて、小春日和の気持ちのいい新年だった。
私は、絵馬を買った。
『今年はいいことがありますように……』
いいことがありそうな新年に、私はそう願いを書いた。
昨年までの嫌なことはすべて忘れて、今年は幸せになりたい。
もっと、もっと、幸せになりたい。
渡場と私。きっと、新たな進展があるように……。そんな願いをひそかに込めていたことは……確かに間違いなくあった。
境内に絵馬を飾り、待っている渡場の腕にしがみつく。私は、はしゃいでいたと思う。
が……。
駐車場に向かっている途中、渡場がいきなり言い出した。
「今年はいいことがありますように……って、何だよ?」
「え? いいことがあるといいじゃない?」
私は、まさか渡場が本気で怒っているとは思わずに、さりげなく言った。
「去年は悪かったのかよ……」
ぼそりと、一言。
「いやだなぁ、直哉。そんな言葉尻捕まえて。去年よりいいことがあればいい、っていうことじゃない」
思わず笑ってしまった。
まさか、そんな些細なことで、文句をつけられるとは、誰も思わないだろう。それに、渡場の片えくぼも健在のままだったから。
だが、私は明らかに空気の読み違いをしていた。
まだ境内の中だということを忘れて、渡場は煙草を取り出していた。
「俺と一緒にいたことが、悪いことなのか? 俺へのあてつけか?」
ここにきて、私は初めて渡場が本気で腹を立てていることに気がついた。
正直言って、なぜ『今年はいいことがありますように』というお願い事で、そこまで腹を立てるわけがわからない。
せめて『今年も』にすればよかったのかもしれないが、スクーター事故で二ヶ月半も入院していたのに、いい年だとは言いがたい。
それに、精神的にも辛いことが目白押しの一年だった。去年と同じ一年は嫌だ。
それは、渡場には関係がない。
いや……本当は、大有りなのかも知れない。
出した煙草に火をつけることができなくて、渡場は苛々と再びしまう。
駐車場までの道は、ブツブツと喧嘩になってしまい、私はすっかり困り果ててしまった。
駐車場についた時、ついに喧嘩はピークに達した。
「直哉、私そんなつもりでは……」
「じゃあ、何だよ!」
渡場は、一度開けた車のドアを勢いよく閉めた。
「……」
「何で何も言わないんだ! 麻衣はいつでも都合が悪くなるとだんまりだ!」
違う。言いたいことは、口の先まで上ってきている。
でも、どうしても言えないのだ。
今までの男にならば、散々言い返せた一言が、渡場には言うことができない。
「バカじゃないの! そんな言葉尻で腹を立てるなんて! 本当に心狭い男! その上、妻子もちでいい加減な男のくせに、私の願い事にいちいち文句をつけるなんて、最低!」
そう、怒鳴りたい言葉が、唇で音を失っている。
そう言ってしまったら、渡場は逃げ場を失ってしまう。
何か言われたら、相手をコテンパンに論破できる渡場だが、だんまりには対応できない。
ただ、苛々と私を責め続ける渡場に、私はついに根を上げた。
「私、地下鉄で帰る!」
「何だよ? 逃げるのかよ!」
渡場が慌てて私の手をとった。私はその手を払いのけた。
「直哉は私が悪いと思っているんでしょ? でも、私、わからない。だから、頭を冷やしたいの!」
「そんなことしなくたって、俺のそばにいれば教えてやる」
「いらない! 自分で考えるんだから……」
私はうるうるしながらも、渡場を振り切って地下鉄駅にズンズンと歩き出した。
携帯電話の電源も切り、私はしばらく雪の公園で冷たい風に当たっていた。
腹立たしいんじゃない。
とても悲しいのだ。
どんなに疑って最悪なヤツと心で叫んでも、嫌いになれない。
憎めたらずっと楽になれるのに、愛おしくてたまらない。
そんな私の苦しい気持ちを、渡場はもてあそんでいる。
利用しているだけだ。
いや、違う。
渡場は、私を信じてはいないのだ。
かっこよくないと愛されないと思っているから、私の心が離れてゆくと思っている。
離れていけるならば、もう離れているのに。
むしろ、そうしたいのに。
渡場は……本当に時々奇妙なことで怒り出す。
それは、だいたいゆとりがない時なのだ。
たぶん……。
昨年、離婚まであと一歩のところまで行った。それが、ぎりぎりでふりだしに戻ってしまった。
それを、私が責めると思い込んでいる。
私に責められていると思っている。
自分を否定されることに、渡場は耐えることができない男だ。
だから……。
今、何があっても渡場を本気で責めちゃいけないんだ。
私に責められることが、怖くて怖くてたまらないんだから。
愛されないことが、怖くてたまらない男なんだから……。
雪がまぶしくて涙が出た。
すすった鼻水が、ちくりと凍りつく。
携帯電話の電源を入れる。
「もしもし……直哉? 私」
渡場の声は、先ほどよりも落ち着いている。
おそらく、私の電話で今頃ほっとしているに違いない。
どこにいる? まだ、つかないの? などと聞いてくる。
「……うん、私ねぇ。公園散歩していたら、寒くてたまらなくなっちゃった。あのね、迎えにきて欲しい」
ばかだなぁ、どこだよ、風邪引くよ、何か目印は? などと、返事が返ってくる。
ますます泣けてきた。
渡場は、たぶん私が泣けば安心するのだ。
私が不幸で泣けばなくほど、彼は優しくなって幸せを感じるのだ。
「ごめんね、直哉。一緒に帰ればよかったのに……」
すっかり泣き声になって、凍りついた鼻をすする。
「いいよ、気にしていないから。すぐ行くから、ね?」
バカバカしいほどに、渡場の声は優しかった。
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