ふりだしに戻る・4

 

 渡場からの電話があったのは、十二時にあと少しという時間だった。


「……ごめん、遅くなった」


 やや暗い声。様子がおかしい。


「うん、大丈夫。何かあったのかと思って心配したけれど、安心した」

「……」


 何かあったのだろうか? 何か気に障ることでも言ったのだろうか? 言葉を間違えたかもしれない。


「来れる? よね」

「ああ、あと……五分くらいで」



 その五分は長かった。

 キン……だけで私は玄関に駆け寄って、コン……で、すでにドアを開けていた。

 渡場は、まるで去年の今日のような顔をしていた。

 私は思わず息を呑んだが、できるだけ平静を装った。


「もう、心配させてくれちゃってさ。寒いでしょ? さぁ、早く……」


 渡場は、何も言わず、私の後をついて回るように部屋に入った。


「お風呂入って温まる? それとも、おなかがすいている? あ!」


 渡場の手に、ケーキの箱があるのに気がついて、私はうれしそうな声を上げた。


「わーい! ケーキだ! ありがとう!」


 テーブルの上に乗せ、早速開いてみた。

 見事に崩れている。食欲減退の、ものすごさだ。


「あ、お、美味しそう! お茶、入れる? それとも……」


 そこで、私の声は途絶えてしまった。

 渡場が、すがりつくように後ろから私を抱いた。



 久しぶりに見る渡場の動揺。

 外から帰ってきたばかりの腕も手も冷たい。

 渡場は震えていた。

 凍えた手が、私の服の中にもぐりこみ、冷たさに体がぴくりと反応した。

 それを、感じているとでも思ったのか、渡場はそのまま胸に片手を、そしてもう片手を下へと忍ばせた。

 このような性急さは、今まで見せたことがない。

 私はあっという間にテーブルに押し付けられ、テーブルの足伝いにするすると体を沈めてしまった。

 つきあい始めたときと同じ、すべてを奪いつくすような強引さだった。

 乱暴……とも言えた。

 それでも私は、ただ受け入れて、渡場の髪を撫でた。

 



「麻衣は……俺を全部受け入れてくれるんだね」


 渡場がやっと口を開いた。

 私は半分涙目だった。


 何度も体を重ねた間でも、やはりセックスはデリケートな問題だ。

 私の場合、感度が悪いのかも知れないが、散々優しい言葉を重ねられ、優しい愛撫とキスを受けないと、中々その気になれない。

 きっと、元々がそれほど好きなわけではないのだろう。

 そんなことを言ってしまうと、かまととぶっているとか、清純派のふりをしているとか、中には嘘つきと罵る人もいる。

 もちろん、抱かれたいという欲求は強く持っていると思う。でも、体が満足すれば満たされるなんてことは、絶対ない。

 ものすごく惨めで虚しくて悲しくなることのほうが多いのだ。

 不自由だね……とか、もっと素直になれば? などと、くだらない男に言われて傷ついたこともある。

 怒られて謝ったりとか……バカみたい。


 だって、それが素直な私なのだ。


 渡場もそのことをよく知っている。だから、この言葉は、私への感謝と侘びの気持ちもある。


「無理を強いてごめん。受け入れてくれてありがとう」 


 ということである。

 傲慢で自信過剰な渡場は、本当に弱っているときには「ありがとう」と「ごめん」が言えない。

 床の上で、中途半端に脱がされた服のまま、私はまだ、渡場の髪を撫でていた。


「……どうかしたの?」

「どうもしない。ただ、急に麻衣が欲しくなった」


 それは、嘘に違いない。



 やっと、落ち着いてきた頃、レンジで温めた美味しくないフライドチキンと、見事に外したまずい赤ワインでかなり遅い食事をとった。

 しかし、なかなか楽しい話にはならない。

 無言の空気だけが流れて、ただ、お互いにひたすらまずいチキンを食べている。言葉を出そうとしては、一口、そして噛み切れないチキンに手こずるのだ。


 口直しにぐしゃぐしゃになったケーキも食べる。  

 テーブルに押し付けられた時にできたらしい肘のアオアザを、渡場は見つけて顔をしかめた。


「あぁ? これ、大丈夫。色のわりに痛くないから」


 私は、できるだけ明るく言った。渡場の顔が、これ以上苦しい顔にならないよう。でも、少しきつめの冗談でおどけて見せた。


「……まさか、これがプレゼント? じゃないよね?」

「ああ、うん……」


 渡場はうつむいた。

 赤ワインを何度かふって、少し空気を含ませる。そして、飲む……が、味はひどいらしい。


「俺は、約束を果たせない」


 ぽつりと一言、渡場は言った。


「約束?」


 不安に心臓が握りつぶされそうだった。

 渡場との約束は、いろいろあったかも知れないが、はっきり果たせないと言い切られたのは初めてだ。


「や、やくそくって……なんだったけ?」


 声が震えた。


「去年、今年の暮れは麻衣の家に行くと言った。その約束だ」




 その約束は、正直いって忘れていた。

 あの頃の私は、渡場の言葉をまったく信じてはいなかった。

 軽薄そうな言葉ばかりを連ねていた渡場の言葉を全部信じていたら、自分が保てそうになかった。それぐらい、実現性のなさそうな、表面的で嘘っぽいようなことばかりだった。

 私を喜ばせるために、ただ、言葉を連ねているだけだと思っていたのだ。


「べ、別にそんなこと……。来年でも、再来年でもいいじゃない」


 幸せが遠のいてショックだったが、渡場がその約束を果たそうとしていたことが、逆にうれしかった。


「今日、実は離婚届に判をもらえることになっていた。どうせならば、今年中にすっきりしたいと、向こうも言い出してね」



 渡場のプレゼントとは、離婚報告だったのだ。

 気が遠くなった。

 人の不幸を望む女にはなりたくはないと思いながらも、渡場の離婚を確実に望んでいた。

 

「でも、今日会ったとたんに、向こうが急に怒り出して……。何で離婚しなきゃいけないんだって、言い出して。今まで話し合った結果、お互いがそれでいいと言ったはずなのに、俺の口車に乗るところだったとわめき出して、手がつけられなくなってしまった」


 渡場の手が震えている。

 自分を完全に否定されてしまうと、渡場はおかしくなってしまう。

 だから、完璧にカッコいい男になろうとして、そう振舞っている男なのだ。

 きっと結婚してもカッコいい夫を演じ続けていたに違いない。妻にとっても、最初は自慢の夫だっただろう。

 でも、渡場は、家庭を大事にする夫を知らない。子供を愛する父親の姿も知らない。

 孤独を感じながらも、むしろそれを乗り越えて、自分で自分の価値観を作ってきた人間だ。今更、完璧に家庭的な男になれといっても、少し無理があるのではないだろうか?

 ふとしたきっかけで、渡場はその生活に疲れていたことに気がついてしまったのだ。


 渡場は、妻と会って話をすることが、精神的におかしくなるほど苦手らしい。

 私は、渡場の妻を知らない。

 話をしたのは、まだ付き合ってもいない頃の、電話での伝言だけだ。

 だから……これは、私の想像の域を超えない。

 超えないのだけど、あの時の苛々きりきりとした妻の声が、とても異常な響きに聞こえた。

 渡場の本性を知って以来、妻は常に渡場をなじり続けているのではないだろうか?

 まともな男ではない、そんな男だとは思わなかった、人間として何か欠けている。子供を愛せないなんて、親じゃない。誠意がない。何もない。渡場をなじれば、おそらくキリがないのだろう。

 あの声の主が、とても幸せな結婚生活を送っているとは、あの時すでに思えなかった。


「妻は、お父さんが亡くなった今年に、そんな非常識な提案を持ってくるなんて、俺の人間性を疑うと罵った。だから……すべてはふりだしに戻ってしまった」


 私は立ち上がると、渡場の頭を抱いた。

 妻の言い分は当然のような気がする。と、同時に、結婚は常に幸せを運んでくるのではないとも思う。

 顔を合わせるたびに、お互いに耐え切れない相手であっても、はい、さようなら……とは、簡単にはいかない。

 まるで不幸を愛するように、結婚にしがみついているようだ。

 そう思うのは、私が渡場の離婚を望んでいるから? だろうか。


「いいよ……。私、待っているから」

「来年は、カウンセラーを入れて、三人で話し合うことにする。だから……」


「うん」

「ごめん」


 そして今年の暮れも、私は一人で実家に帰り、親が見せてくれるお見合い写真をすべて断り、父に悪態をつかれて正月に戻ってきた。

 渡場は、テニス仲間と徹夜マージャンで新年を迎えていた。

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