ふりだしに戻る・2
渡場は忙しい。
だから、最近は一人寂しく家に帰り、ため息をつきつき、晩御飯を作っている。
渡場が稼いだ金は、妻のマンションの頭金に化け、私は渡場を養っている。
……ような気がする。
スーパーに行ったときは渡場が支払いする、という暗黙の了解はそのままだったのだが、一緒に行くことがなくなってしまったからだ。
それに、電気代・水道代などは相変わらず私が払っているし、家賃も私が払っている。これは、元々掛かっていたもので、渡場ひとり増えたところでたいした違いもない。
ただ、気分的に納得がいかないのだ。
渡場は、時々気が向けばお金をポンと渡すのだが、だいたいは忘れている。育ちのせいなのだろうか? 金に無頓着すぎる。
口先から文句のひとつも出そうなのだが、その言葉を出す暇がない。
渡場は、まさに寝に戻ってくるような有様だったから。
正直、私は寂しく思っているだけなのかもしれない。
付き合い始めたときは、料理の時すらうるさくて大変だったのに、今はかまって欲しくても帰りが遅すぎる。
晩御飯は、十時に食べるのが当たり前になってしまった。
遅番で帰ってきて作り始めたカレーも、じわりと煮込みが進んでいた。
そして、帰っていたら帰ってきたで、案の定。
「え? ビーフじゃないの? 俺、ポークよりビーフがいい」
昔は半分の目玉焼きで感動していたくせに、せっかくのカレーに文句をつける。腹立たしい。
「申し訳ありませんが、私のお財布ごときでは牛肉には手が出ません。ぶーちゃんで我慢してくださいませ!」
「ボーナスでたら半分渡すから、お願いですからモーさんにしてください」
「もーっ!」
渡場の懇願に、私は弱い。
本当にボーナスを半分くれるかどうかは疑わしいけれど、とりあえずOKするしかない。
渡場は、カレーをほとんど食べなかった。
どうも、彼は気に食わないと食べないというわがままなタイプらしい。
妻もうんざりしたことだろう……と、呆れてしまう。が。
もしかしたら、さすがにこれくらい遅くなると、当然何かを食べてきているのかもしれない。
この時間では、食べたくないのもわからないでもない。
ほとんど残ったカレーは、冷凍になってしまう。
食べてくるなら食べてくると、はっきり言ってくれればいいのに。
私だって仕事を持っているのだから、別々に食事をしたとしても仕方がないと思う。ところが、渡場は一緒に食事をすることに、妙にこだわるのだ。
やけくそになって、冷凍用のジップ付パックにカレーを入れていると、時々失敗して手までカレー臭くなってしまう。
お茶を入れても、けろっとしているのも腹立たしい。
本当に女たらしのくせして、関白なタイプで困り者である。
ありがとう……の一言もないので、いったい何様のつもりなんだと思うのだが、ほんのりと頬に浮かぶ片えくぼがうれしそうなので、つい、こちらも気持ちが和んでしまうのだ。
「ところで麻衣、相談なんだけれど……」
突然、渡場が真面目な顔をした。
「あのさ、俺、S大に移ろうかなぁ……と思うけれど、どう思う?」
私は目をぱちくりしてしまった。
大学のことはよくわからないが、今のK大は一流大学でS大はそうでもない。
どう考えても、研究のことを考えれば、今のところにいるほうがずっと将来性がある。
「実は、S大の臨時講師をしているでしょ? 気に入られていてね、助教授のポストを開けておくから、来ないかって言われていてさ」
「私……わからないけれど。直哉がそうしたいなら、反対はしないよ」
少しドキドキした。
まさか、とは思うけれど。
離婚したら、働きにくいから? などと思ってしまった。
いや、今の状態でも充分に働きにくいだろう。
たかが紙切れ一枚のことで、社会の評価は分かれてしまう。
何一つ変わりない関係であったとしても、結婚していれば立派な夫婦、していなければだらしない男女関係なのだ。
政治家・芸能人・銀行員・弁護士・警察官……そして、教師など。
スキャンダラスな噂でも飛べば、職種によっては命取りになる。
私とともにあることで、渡場の将来は……もしかしたら、閉ざされていくのかもしれない。
そうだったとしたら……嫌だ。
こんなのは、やっぱり嫌だ。
でも、渡場はけろりとして、やっぱり肉は牛がいいなぁ……などと、ぶつぶつ言い続けながら、お茶をすすっていた。
そんなふうに日々は流れてゆく。
たぶん、何も考えないで日々を過ごしていれば、とても幸せなのだ。
でも……。
なぜなんだろう?
時として、どうしても耐え切れないやるせない気持ちになるのだ。
抑圧されていて、押さえつけられていて、首を絞められているようで、温いお風呂に頭まで浸かっていて、息が出来ないみたいな。
何も考えなければ幸せでいられるのに、何も考えない自分ではいられない。
「満足した豚よりも不満足な人間であるほうがよく、満足した愚者よりも不満足なソクラテスであるほうがよい」
などという言葉は、高校時代の倫理社会の教科書に載っていたような気がするが、渡場は豚で愚者かもしれない。
時々苛々する私を尻目に、なぜ、何も考えずに楽しく日々を過ごせるのか……信じられない。
私は、私の身だけを案じればいいのだが、渡場には案じるべき妻と子供もいるはずなのに。
掃除機をかける時。食器を洗う時。洗濯機に洗い物を入れる時。
ほんの些細な家事の合間に、私は悶々と考え込んでしまうようになった。ビールの量は増え、常にビールを飲みながら家事をした。
ちゃんと今後のことを考えているのか、ついに問いつめようと思った日、渡場はなぜか上機嫌だった。
新しいゲーム機がでたとかなにかで、買ってきてしまったらしい。話は見事に外されてしまい、私たちはゲームで時間を費やした。
私たちは、豚で愚者であるほうが、幸せである。
賢くなって、誰かを傷つけているかも? などと、考えないほうがいい。
向うだって、私を見て見ぬふりをしている。
向うだって、現状を甘んじている。
ゲームは、私を睡眠不足にさせた。
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