冷たい戦争・5


 私は、こんな男なんて認めない。

 絶対に絶対に認めない。


 にらみ合いともいえる戦いに、先に根を上げたのは渡場のほうだった。

 彼は、すっと視線を外した。


「麻衣は……そうやって、男を拒絶する。そうやって……男を情けない物に貶めるんだ」


 前にも、渡場はそう言った。

 私は悪女なのだと。でも、悪魔には悪女でなければならない。

 人の情けなどない男に、情けをかける女ではありたくはない。


「麻衣が俺を最低な男に貶めるなら、それでもいい。俺は、今の状態ならば、麻衣のお母さんにも会えないような男だしね」


 腰に回されていた渡場の手が緩んだ。私は、少しだけほっとした。


「でも、麻衣は勘違いしている。俺は、麻衣が思っているよりも、ずっと度量のある男だ。麻衣は、俺を拒絶しきれない」


 渡場はそういうと、あっという間に再び私を抱きしめた。

 すっかり油断してた。

 それでも、キスや愛撫などは、受け入れてやらない自信はあった。

 冷たく拒否できるほど、この三ヶ月は辛かったのだから。


 力づくで奪うなら、奪ってみればいい。

 けれど、私は屈しない。

 心も体も、けして落ちない。

 あなたなんかで満たされない。



 しかし、渡場は私がけして耐えることができない弱点を知っていた。

 そこに触れられて、私の理性は吹き飛んでしまった。

 体中に電気が走ったように、すべての毛が逆立った。


「あっ! 嫌っ! やめて!」


 身をよじって渡場から逃げようとしたが、すっかり筋力が落ちてしまっている私には、まったく不可能だった。

 鉄壁の氷の拒絶は、みるみるうちに砕けてしまい、私は渡場の腕の中でもだえていた。


「あっつ……だめだったら! そこに触らないでってばぁ!」


 しかし、渡場は許してはくれなかった。

 渡場の指先は、彼だけが知っている私の最大の弱点——おなかの醜い傷をなぞっていた。

 耳元で囁く声は、吐息などでも甘い言葉でもない。

 こちょこちょこちょ……という、子供じみたいたずらっ子の声だった。


 体中が必死になって、こそばゆさを耐えた。

 おかげで全身に血が巡り、茹蛸のように真っ赤になってしまった。

 耐え切れるものではない。


「変態!」


 わずかな隙をついての必殺の膝蹴り。相手が弱ったところを、今度は満身の力をこめて平手打ち。それでも渡場は笑ったままだった。

 私はやっとの思いで逃げ、テーブルの上の薔薇の花束をつかむと、今度は積極的な反撃に出た。


「この! 直哉のバカ! バカ男! バカバカ!」


 薔薇の花の首が飛び散るほどに、笑いまくっている渡場を追いかけて叩きのめしていた。

 呼吸がすっかり上がってしまったところ、渡場は振り上げた私の手を捕まえた。

 薔薇の花束がぼろりと床に落ちた。


「やっと……直哉って呼んでくれたね」


 私は、息を荒くしながらも、自分の失態にやっと気がついた。

 渡場は、そっと私を引き寄せる。

 激しい息遣いは、長いキスのためにすっかり一時中断に追い込まれてしまった。


 私は、どうしてコイツのペースにはめられてしまうのだろう? 

 新たなスタートを切るはずだったのに……。


「新たに、俺とスタートすればいい」


 ずうずうしくも、渡場は言う。片えくぼがとても嘘つきっぽい。


「嫌……」


 といいながら、また、渡場に抱かれてしまっている。




 真っ赤な薔薇が散乱する中、渡場はワインをあけた。

 クーラーがないので、鍋に水と氷を入れて、その中にワインのボトルを突っ込んだ。

 アウスレーゼは冷やしたほうが美味しいらしい。

 玲子の結婚式の引き出物であるワイングラスに、やや生成りの白ワインが注がれた。

 乾杯しても、私はふっとため息をついてしまう。


 渡場といたら、私はだめになる。

 どうしても、これは私のためにはなりそうにない乾杯だった。


 渡場はそれを察したのだろう。すっと、私の手をとった。


「俺は麻衣と結婚する。信じてほしい」


 それをどうして信じられる? 私は情けない顔をしたと思う。

 渡場は、意を決したように話し出した。


「正直、離婚の話し合いは難航していて、くじけかけたこともある。妻はもう、意固地になっていて、俺を責めるだけ責めて、ヒステリーを起こしてしまうから」


 私は、ぼうっと渡場の顔を見た。

 本当なのか、詭弁なのか? 判断に苦しむ。


「話し合いの過程を説明すればよかったと思うけれど、麻衣もいろいろ精神的にまいっていたから、つい、話ができなかった。進展がなかったから、喜ばせれないと思っていたし……でも」


 でも……の一言に、私は反応した。


「麻衣が入院している間に、ほんの少しだけ、進展した」



 渡場の妻の不満はたくさんあった。

 その最たるものが『子供を顧みない』であったらしい。

 確かに、夫がすっかり家に寄り付かない状態では、女はついつい子供べったりになるものだ。


「この夏休み、キャンプに子供を連れ出したり、海水浴に連れて行ったりしてあげた。それで、少しは話し合いをする気になったようだ」


 それで、渡場は真っ黒に日焼けしてしまったのだ。


「それと、大きな問題に家のことがあってね」


 渡場の妻は公宅に住んでいた。

 しかし、それは教員の公宅であるので、離婚してしまうと妻は引っ越す必要があるという。


「ちょうどお父さんが亡くなったこともあるし、俺からの仕送りもある程度の金になったからってね。マンションを買って、お母さんと暮らすことにしたらしい。もちろん、向こうの所有でね。俺には完全に帰る家がなくなったわけ」


 渡場は、少しだけ寂しそうに笑った。


「だから、俺は、麻衣に追い出されたら野たれ死ぬところだった」


 お互いを必要としない夫婦。離れていることで安定している関係。

 渡場の妻は、渡場のいない生活を当たり前としている。

 そして、渡場もそれを受け入れている。


「それで……いいの?」

「麻衣が責任とってくれるだろ?」

「……うん」



 もしかしたら、渡場との先にあるものは幸せかもしれない。

 そう夢を見てもいいのだろうか?

 いや、ただ結婚できるかもしれないという餌で、釣られているだけかもしれない。世の中の不倫の典型的パターンだ。

 だいたい、他人の不幸を望んで幸せを夢見るなんて、人間腐っている。

 自分に都合よく愛情を解釈してしまったら、あとで損をするだけだ。


 もっと利口にならなければ……。


 そう思おうと思ったけれど、渡場の顔を見ていたら、気持ちがどろどろと崩れてしまった。

 ばかばかしいとは思うけれど、こんな男でも好きなのは好きなのだ。

 同時に、あまりにも今の渡場がかわいそうで、泣けてきた。

 渡場にとっても、離婚したほうが今よりずっと幸せだろう。そう思えてきてしまった。

 たとえ、戻るつもりはないとはいえ、自分の居場所をどんどん無くしていくということは、怖いことだ。立場がどんどん無くなっていく。

 渡場は、妻と子供を愛せないのだ。

 でも、人を愛せないという報いは、もう充分に受けていると思う。

 私の涙を喜びの涙だと勘違いして、渡場はうれしそうに私を抱きしめた。

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