冷たい戦争・4


 結局、私の入院は二ヶ月半にもおよび、家に帰るころには、秋も深まっていた。

 部屋のゴムの木が枯れていなかったのは、母が時々家に来て水をやっていたからである。

 両親が、しつこく帰って来いという中、リハビリにもならない、通勤も大変だ、などと、理由をつけて、一人暮らしに戻ってきた。


 意固地なくらいに、私は両親に頼りたくはなかった。

 両親のもとに、私の居場所はもうないのだから。


 渡場は、母の気配を感じて、家には近づけなかったのだろう。いや、来る必要も、もう無くなってしまったのかもしれない。


 自然消滅……。


 これが、まるで夫婦のように一年近くも過ごした、私と渡場の関係のエンディングなのだ。

 入院中に書いた汚い文字を見て、私は決意を新たにする。

 もう一度、生まれ変わったつもりでがんばろうと思う。


 ちょうど去年の今頃、渡場と海に行った。

 見れば真実の愛に目覚めるという、伝説のグリーン・フラッシュは見ることが出来なかった。

 元々、渡場は運命の相手ではなかったのだろう。

 だいたい、私と渡場とでは、考え方も好みも生き方も違う。なぜ、一緒にいられたかもわからないほど、似ていない。


 あの海のデートが、すべての間違いだったのだ。

 その海を越えて、渡場の束縛から自由になろう……と、思った。



 電話が鳴る。

 親から? それとも……玲子から?


 玲子、と思って苦笑した。

 彼女は今、このような時間に電話できる状態にない。

 姑の鋭い目が玲子の電話時間を細かくチェックしているからで、かわいそうな玲子は買い物途中の公衆電話から、時々祥子に電話したりするらしい。

 結婚してからは、玲子は病院にもお見舞いに来れず、祥子が玲子の近況を教えてくれるのだった。


「もしかしたら……即離婚、ありそうな感じなんだよね」


 さすがの祥子も、かなり心配しているらしい。

 でも、祥子はこうも言った。


「でもね、この結婚も無駄じゃないと思うよ。玲子にとっては痛手だけど、結婚という現実をちゃんと学んだわけだしね」



 はたして……。

 人生に無駄なし。という言葉は真実だろうか?


 私は虚しい一年を振り返ってみる。幸せなだけに、余計虚しかった。



 電話を取る。


「もしもし」


 できるだけ明るく。

 これからの新しい私に向かって、明るく過ごすために。


「麻衣、退院おめでとう」


 一気に目の前が真っ暗になった。

 渡場の声は、無理に明るくはしているが、やはりどこか暗く感じた。


「これから……退院お祝いに行くけれど、いい?」

「……」


 声が出なかった。

 この期に及んで、この男はいったい何を言い出すのだろう? 


「麻衣? 聞こえている? これから行くけれど、いいね?」

「だめ……。今日は遅いし……」


 この時、母がいるとでも、嘘をつけばよかった。そうしたら、彼はあきらめたはずなのに。


「でも、もうワインも買った」

「だめ……。もう疲れているし……」

「まだ、一人だと大変だろ?」

「……大変……なんかじゃない!」


 私は一方的に電話を切った。


 ものすごく腹が立った。

 本当に大変な時。

 一番、そばにいて欲しかった時。

 いてくれなかった。

 それだけで、私が渡場を拒絶する理由は充分だろう。




 キン……コン……。


 この大人しいベルの鳴らし方は、渡場である。

 電気も消して、不在か……もしくは熟睡を演じてみたが、無駄だった。音は二度、三度と間を空けて鳴り続ける。

 私は開けない。

 開けて渡場を入れてしまったら、せっかくの決意は海の藻屑と化してしまう。

 自分の意思なんて、これっぽっちも堅固でないことは知っていたし、なんといっても、やはり彼に会いたいと思ってしまっているから。

 自分のために、幸せになるために、この苦しみは乗り越えなければいけない。


 私は耳を押さえて布団にもぐりこんだ。が。

 なぜかその耳に、カチャン……という鍵の外れる音だけが届いた。

 私は渡場から合鍵を返しては貰っていなかった。

 ドアチェーンを掛けるように、という渡場の忠告を思い出して、私は後悔した。

 慌てて起き上がる。同時に居間に電気がついた。

 渡場の姿を居間に見つけて、さらに後悔してしまう。

 泥棒からは逃げるよう、隠れるようにと言われていた。

 でも、結局、私はベッドからもそもそ這い出して、渡場の前に姿を現してしまったのだ。


 渡場は、真っ赤な薔薇の花束と、ドイツ・ワインを持っていた。

 お見舞いに初めて来たときと同じスーツを着ていて、見てくれだけはとてもいい男に見える。さりげなく上着を脱いでソファーに掛ける姿は、まるで自分の家にいるかのようだ。

 まるで昨日も一昨日もここにいたかのように、三ヶ月近くの空白をものともせずに、けろりとしていた。



「どうした? 本当に疲れて眠っていた?」


 あまりの白々しさに、私は呆れていた。

 悪魔が再びやってきた。


「渡場さん、もう……こんなこと、やめましょう」


 力のない声で、やっと一言。

 渡場は、さすがに『直哉』と呼ばれなかったことに動揺したらしく、ピクリと震えた。


「お見舞いに来なかったこと、怒っている?」

「いいえ、もう怒ってなんかいません」

「いや、その言い方……。怒っているんだ」


 渡場は薔薇とワインをテーブルに置き、すこし苛立った声を上げた。

 私は抑揚のない声で返事を返した。


「怒っても仕方がないです。もう赤の他人ですから」


 三回ほど渡場はため息をついた。

 そして、私のほうを見た。

 困った顔をしていると思いきや、なんと微笑まで浮かべている。例の片えくぼが、妙に深く感じた。

 すっと私に近づいてくると、割れ物にでも触れるかのようにそっと抱き寄せる。


「他人じゃない。麻衣と俺は……」


 髪を撫でる手、首筋にかかる息。そして、キス。

 渡場は、自分が抱きしめれば女は折れると思っている。

 優しい言葉のひとつでもかければ、すべては許されると思っている。

 その傲慢さが許せない。


「私、渡場さんの人形ではありません」


 なすがままにされても、心と体は石だ。

 力じゃ敵わない。

 下手に拒絶すれば、喜んで追ってくる男だと知っている。一番は、すべてを無視することなのだ。


 何の反応も示さないこと。

 あなたなんか知らないと突き放すこと。


 私の服に手を入れようとして、渡場は動きを止めた。

 じっと見つめる目を、私もじっと見つめ返す。

 見つめあいながらも、私の目には渡場は映っていなかった。ただ、虚空があった。

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