冷たい戦争・2
なぜ私が入院しているのか、誰もが不思議に思うだろう。
それくらい、見た目はまったく普通だった。
リハビリが始まった。腕はもう固定されていず、自然に下ろされている。
でも、残念ながら、右手は動くことがなかった。だから、歩くとややぎこちなかった。
すっかり筋肉が落ちてしまった。
不思議なことだが、私はどうしたら腕が上げられるのかを思い出すことができなかった。
左手を持ち上げてみて、その感覚を思い出そうとするのだが、いざ右手……となると、どうしても上げられない。
リハビリを真面目にすれば元通りになる、と言われているが、本当に動くのか心配だった。
電話の前で、私はひとつの賭けをする。
左手で受話器を取り、右手でポケットからテレフォンカードを出す。そして、それを持ち上げて電話に差込み、ナンバーをプッシュできるか……。
できたら……渡場と話してもいい。
でも、できなかったら?
ポケットからカードは出せるようになった。でも、やはり電話まで持ち上げることはできない。
私は必死になって腕を持ち上げようとがんばる。
体をのけぞらせ、どうにか電話台のあたりに指先をかけることができたのだが、それから先が進まない。
無理に上げようとすると、涙が出てくるほどに痛い。腕が折れてしまいそうだった。
こうして私は、どうしても聞きたい渡場の声をあきらめる。
渡場には、入院が長引くことすら伝えていない。
たった四日の別れを心配してくれた男は、四週間も声すら聞かせてはくれない。
病院にいて、何の役にも立たない女など、渡場には不要なのかもしれない。
私のことなど、忘れ去ってしまったのかもしれない。
あんな薄情男に人並みの優しさをあてにしたことが、私の間違いだったのかもしれない。
きれいごとなら、優しい言葉なら……。
口さえ利ければ、犬だってしゃべる。
やっと渡場が現れたのは、私が入院して一ヶ月が過ぎた晴れ渡った日である。
理子と美弥が、何度目かのお見舞いに来てくれた。渡場は、その二人とともに現れた。
母にそこまでは見抜かれていないと思っているので、まったくの友人の一人として、二人にまぎれたつもりなのだろう。下手なカモフラージュだ。
面談室で飲み物などを飲みながら、四人で楽しく談笑する。
そう……楽しく。
渡場はますます日焼けしていた。
おそらく、この暑い夏は海水浴やキャンプを楽しんだのだろうと、一目でわかってしまう。
着ている服は、私が見たこともないものだった。
新しいジーンズに、ボーダーのTシャツ。服はほとんど私の家にあったから、買い換えるしかなかったのだろう。もしかしたら……新しい女の趣味かもしれない。
不自然にならない程度に、私は渡場を見ないようにする。
理子が、いつもの「いやぁだー!」とともに、渡場を叩き、彼は片えくぼを見せて笑った。
私も笑う。
どういう気持ちで私が笑っているのかを、知らないはずはないだろうに。一度は浮気したかもしれない理子の横で、笑顔を見せ付ける気持ちが知れない。
「白井さん、退院はいつ?」
渡場がさりげなく聞いてきた。
その『白井』という呼び方が、奇妙なほどにぎこちなくて、私はまた笑ってしまった。
「うん、ちょっとわからない。なんか、ピンをまだ抜けないみたいなんだよね。少し出掛かっているから様子見ないと……」
そう言って左手で右肩をさする。
美弥が「いい?」と言って、興味深そうに私の右肩を触った。
「うわ、本当! 何か出てきている!」
皮数枚で、ピンは辛うじて私の肩に埋まっているのだが、鏡で見ると皮膚を透かせて金属の色が見えるほどなのだ。
看護婦が毎日観察して、医者に報告している。
「これ以上出てくると、もう一度打ち込まなければいけないらしいんだけれど……。おそらくもう少し耐え切れたら、ピンを抜けるらしいので、日々、医者もどうしようか悩んでいるみたいなの」
理子も恐る恐る私の肩に触れ、びっくりして手を離した。
「い、痛そうですねぇ……。ねぇ、直哉さん」
渡場の顔が歪んだ。
触ってみたら? という表情の理子の横で、首を横にふった。
「ふふふ……。直哉さんって、なんだかんだ言って、痛そうなのって弱いですよねぇ」
「……別に……」
美弥に笑われて、渡場はプイと横を向いた。
それは、仲間内では滅多に見せないような、怒ったような顔だった。
「それじゃあ、またね」
そういって帰る三人を、ロビーまで見送る。
まったく元気そうな私に、渡場は不思議そうに声を掛けた。
「本当に……腕、上がらないの?」
「うん、駄目ね。退院した後もリハビリが必要だし……母は実家に戻ってこいって言っている」
それは、さりげなく「退院した後も、私達は戻れないのだ」と、伝える言葉だった。
勘のいい渡場は、少しだけ動揺を見せた。
「そうよねぇ。一人暮らしって大変そうだから、そのほうがいいよね」
そういう美弥の言葉を、渡場は途中で断ち切った。
「いや、俺は家に帰らないほうがいいと思う。一人で何でもやらないと、リハビリにならないよ」
「でも、直哉さん。一人ってたいへんだと思いますよぉ」
理子までが渡場の意見に賛同しなかった。
「たかが、腕ひとつの不自由だろ? そんなにたいへんではないでしょう?」
え? と言うように、理子と美弥が奇妙な顔をした。
その表情に、渡場は少しだけまずいとでも思ったのか、微笑んで見せた。突然、私に振ってくる。
「ねぇ、白井さん。やっぱりたいへん? 腕が上がらないのって、どう?」
笑顔ではあっても、どこかすがりつくような、まとわりつく視線がうっとうしい。
私はうつむき、左手で右腕をさすった。
渡場は、私の右上腕部をさりげなくつかんだ。
くらりとするほど、その感覚が懐かしかった。悲しそうな顔をしてしまったと思う。
「腕……細くなったんだね。これじゃあ、手首みたいだ」
渡場の指は、私の腕をつかんでも重なってしまっている。
泣き出しそうなくらいに切なそうな表情に、私は顔を上げることもできなかった。
見てしまったら、私はまた弱くなってしまう。
渡場の腕は、ジムで鍛えていたのだろう、私の3倍は太くてたくましかった。
渡場の二度目のお見舞いは、こうして探りあいみたいな、他人のような会話で収支した。
美弥と理子がいるのだから、当然、二人の世界はなかった。寒々とした世界が広がっていた。
たった皮一枚で繋がっている。
まさに、今の渡場と私は、そんな感じなのだろう。
私の肩のピンは、突き出れば抜かれるか打たれるかするだろうに、私をいたぶるように中途半端で止まっている。
痛みを伴ってでも、抜くか打ち込むかして、長く苦しい入院生活をどうにかしたい。どうにかしたいのに、どうにもならない。
その後、渡場の三度目の見舞いはなく、私も電話をすることはなかった。
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