男の逃げ道・5


 病院の電話は、一階のロビーまで行かなければならない。

 右手がまったく動かないことが、これほどまでに不自由であるとは思わなかった。

 まずは、うまく歩けない。体のバランスが取れないのだ。

 電話をかけるのに、受話器をなれない左手で持つ。これがなんだか落ち着かない。

 さらに、ローブのポケットからテレフォンカードを出す。これも、受話器を電話の上に置き、左手で電話に差し込むのだ。

 プッシュするのも左手。しかも今まで携帯電話の履歴からかけていたので、電話番号を覚えていない。メモを見ながら……であるが、それも支える手がない。

 受話器でメモ紙を押さえながらプッシュしていたら、途中でひらひらと床に落ちてしまった。

 体のバランスが取れないので、拾うのも一苦労だった。

 そこまでして、渡場の声を聞こうとしている自分が虚しい。


「俺も寂しいよ。麻衣に会いたい」

「お見舞いに来てくれたらいいのに……」

「今は、無理だよ」


 電話すればますます虚しい。


「電話するの、けっこうたいへんなんだよ」

「リハビリだと思ってがんばって……」


 電話は、後ろに並んだ人のために長くはかけられない。

 かけられる時間も限られている。日中は渡場は仕事だし、夜は病院に消灯時間がある。

 それに……。

 渡場は知らない。

 私はまだ、腕をガチガチに固定されていて、リハビリできる状態ではない。お見舞いに来ないから、彼は私のことを少しもわかっていない。




 職場から見舞い客が来る。

 退院しても、私はすぐに復帰できない。腕が上がるようになるまでに二ヶ月はかかるといわれている。他が元気なだけに心苦しくなる。


「元気そうだねぇ」


 上司の声が、私を責めているように感じられて辛い。それでなくても、去年も入院し、迷惑を掛けていた。

 気が重い中、祥子が見舞いに来てくれた時、私は泣きたいほどにうれしかった。

 今年は少し暑いのだが、彼女には夏痩せという言葉がない。


「病院って、あまり冷房を入れないんだねぇ」


 などといいながら、団扇でハタハタと仰いでいる。

 つもる話も溜まっていたので、冷房の効いている面会用の談話室へと移動した。


「あんたって、今まで病院とは無縁だと思っていたけれどさぁ、こう二年も連続でお世話になっているのは、ちょっと問題あるかもねぇ。厄年なんじゃない?」


「厄年? 厄って三十歳だったけ?」


「女、三十歳、いろいろ曲がり角ってことだよ。このままじゃあ、前厄・本厄・後厄と続くかもしれないしねぇ。ほら!」


 と言って、祥子は鞄からなにやら取り出した。


「北海道神宮のだけど、お守り。念のために持っていな」



 やっぱり、祥子は友達だ……と思った。

 本当に困っている時に、必ずそばにいてくれる。

 今から思えば、工藤にふられて荒れていた時だって、最後まで「付き合いきれない!」と言いつつ、付き合ってくれたのは祥子だけだった。

 私が打ち明けなかったから、彼女は余計な詮索はしなかった。

 しないでただ……そばにいてくれた。


「え? 何? あの傲慢わがまま男、それで見舞いにも来ないの? うわっ、最悪」


 案の定、祥子は渡場の態度に顔をしかめた。

 このようなときにそばにいてくれる祥子と、口ばかりでそばにいてくれない渡場。

 どちらが正しいか、冷静に考えれば、おのずと答えが出てくる。


「本当に……最悪だと思う」


 そういいながらも、私は悲しかった。

 渡場のことを悪く言われると、自分のことのように悲しくなるのだ。

 自分の中では、最低な男だということはよくわかっているのに、どうしようもないのである。


「うーん、そこが問題なんだよねぇ。惚れきってしまっているかなぁ……。まさか、麻衣がそこまでのめりこむとは思わなかったよ」


 あたりをきょろきょろして、灰皿がないことにがっかりしながら、祥子は言った。


「あんたって、目が覚めると一気に気持ちが冷める女だと思っていた」

「私も……そう思っていたんだけれどねぇ」



 別れた男を引きずりながらも、私はその男たちに愛を感じたことはない。

 ただ、寂しかっただけ。

 裏切られたことに、涙しただけ。

 不誠実な男を、私は憎んだ。

 なのに私ときたら、こんな仕打ちをされていながら、渡場のことを心配している。


 食事はどうしているのだろうか? とか。

 あのひどい家で、困ってはいないのだろうか? とか。

 夜中に無呼吸に陥っていないだろうか? とか。


 もちろん、本当にそうだったら気が狂うほどに嫌なのだけど、あのような状態を一人で過ごさせるくらいなら、誰か横にいてあげて欲しいとすら、思ってしまう。

 

「でもさ、これはチャンスだよ。傲慢男との決別のね……。口先男だとわかっただけでも、ありがたいことだよ。あ、私帰るね」


 そういうと、祥子は立ち上がった。

 突然のことで私が驚いていると、祥子は笑った。


「安全パイ」


 祥子の視線の先、面談室の入り口にうろうろしている杉浦の姿があった。



 祥子が気を利かして帰ってしまうと、杉浦はいそいそと談話室に入ってきた。

 外が暑かったせいか、鼻の上を赤くしている。


「や、やぁ、元気そうだね。事故の話聞いて、驚いたよ」


 あれだけひどい喧嘩をして別れたのに、正直いって杉浦が来たことは意外だった。とはいえ、とてもうれしかった。

 私がつい微笑むと、杉浦も真っ赤になって微笑んだ。

 彼としても、勇気を振り絞ってのお見舞いだったに違いない。


「あ、これね。本。きっと退屈しているかなぁ……と思ってね。それと、これはゲーム」


 次から次へと現れるお見舞いグッズに、私は目を奪われてしまった。


「いや……あの、ありがたいけれど、そんなにしてもらわなくても……」


 杉浦の気持ちには応えられない。

 私は、もうそれに気がついている。

 でも、杉浦は照れくさそうに笑って言った。


「あの……。いいんだよ。僕、喧嘩してからずっと考えていたんだけど、やっぱり白井さんのことが好きだと思う。だから、いろいろしてあげたいし……」


 胸が痛んだ。

 杉浦にとっては、私は最低の悪女だろうに。


「私、杉さんの気持ちには応えられない。他の人にいろいろしてあげたほうがいいと思う」

「……いいんだよ」


 泣いているわけではないだろうが、杉浦は一度眼鏡を外して、瞬きしてかけ直した。

 本当に……全然男前ではないと思う。

 眼鏡がすでに顔の一部になっているので、ないと余計に締まらない顔になり、奇妙だった。


 人間・顔ではないとはいうが、それは嘘である。


 杉浦が渡場ほどの器量よしであれば、人生変わったと思う。

 そこまで純情ではいられないような、恋愛の酸いも甘いも経験することになっただろう。


「他の人を好きになれれば……とは思うよ。でも、やっぱり、白井さんが好きな気持ちには嘘はつけない。それに……」


 しんみりした話を嫌ってか、杉浦は突然明るく言い出した。


「それにさ、僕、打たれ強いと思うんだよね。もしも、僕の気持ちが変わることがあるとしたら……白井さんの気持ちだって変わる可能性があると思うしさ。だから、もう少し、がんばってみることにしたんで、気にしないで今まで通り、友達でお願いします」


 喜んでいいのやら……。

 困ったやら……。


 私も冗談交じりに言葉を返す。


「でも、私はもうおばさんだしね。気が変わったほうがいいとは思うけれど」

「あ、白井さんがおばさんになった時には考える。でも、僕、同じ歳だけど今でも充分にオジサンだからなぁ……」

 


 杉浦との談笑は長く続いた。

 面会時間が終わりに近づいて、母が様子見に来たとき、杉浦は恥ずかしそうに言葉少なく挨拶した。まるで鳩が豆を突くようにせわしくペコペコと頭を下げる。

 それでも、母の杉浦に対する評価は高く、お見合いはいらないんじゃないの? などと言い出す始末だった。



 夜。


 母も帰り、私は一人、ベッドに横になる。

 一人……とはいっても六人部屋で、しかもお年寄りばかりだったが。

 完全に冷房が切れて、暑くて寝苦しい。しかも、お昼にたっぷり冷房を浴びたせいで、肩の骨がボンボンと痛む。


 こんな時、渡場の添い寝が恋しくなる。

 優しく髪や頬、額を撫でて欲しくなる。


 つい、声を潜めて泣いてしまった。

 その後も、毎日お見舞いにきてくれるのは杉浦で、渡場は顔を出さなかった。

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