男の逃げ道・4


 胸に氷を突っ込まれたような、そんな冷たさを感じた。

 たった四日会わないことを寂しがった私に、渡場はあと十日は会いにこないと言ったことになる。


「私……とても心細くて……怪我をして、ここにいるんだよ……」


 渡場が手を握り締めても、ちっとも何も感じなかった。


「麻衣、これは後々のためだ。今、君のお母さんに会って、とことん嫌われてしまったら、結婚する時に厄介だ」

「……」

「わかってくれるね?」


 わからなかった。

 わかるのは……渡場が私を一人ぽっちにしても、まったく平気だということだけ。


「直哉は、私に会えなくて寂しくないの?」

「寂しいけれど、後々のことを考える」


 お見舞いに来ないことが、どうして後々のためになるのか? 別に何もない。


「テレカを買ってきたから……起き上がれるようになったら、電話して」


 感覚のない手に、冷たいプラスチックのカードが添えられて、ずっしりと重さを感じる。

 私の心にも、重くのしかかる。


 嘘だ。


 渡場は、母の目にさらされて、責められるのが嫌なのだ。

 もしも本当に私と結婚するつもりならば、たとえ後ろめたい関係であっても、堂々とすればいいのに。

 もっともらしい理由をつけて、逃げた……のだ。

 今までの過去の情けない男たちと同様に。

 どこが、自分だけはいつでも私の味方なのだろう?

 私が一番そばにいて欲しいときに、病院の冷たいベッドにポンと一人、置き去りにしようとしていて。


 嘘つき。


 じわりと浮かんだ涙を拭いてくれた指も、ちっとも優しくはなかった。


「麻衣、泣いちゃだめだ。お母さんに勘ぐられる」


 様子見に回ってきた看護婦の気配に、渡場は私の手を離した。

 さっと、丸椅子に座りなおして平然としている。


「ちょっと、点滴早かった? 大丈夫かな?」


 看護婦は、私の顔色を見て具合が悪いと判断したのか、点滴を調整していった。

 ついでに、渡場がかすかに引いたカーテンを直してしまったので、渡場は私にもうキスすることもできなくなった。


「じゃあ、帰る。俺は、俺のあの家にいるから、携帯に電話してくれ」


 私は押し黙っていた。

 時々かすかに唇を動かして何か言おうとしているのを見て、まるでその言葉からも逃げるように、渡場は去っていった。


 ……渡場を、責めることすらできなかった。




 渡場の言い訳に、逃げ以外の何物も考えられなくて、私は呆然としていた。

 つきあい始めた時、渡場は人目を気にせず私を焦らせたほどだった。その豪快さは、どこにもなかった。

 私は、渡場の『影の女』として、はっきりと位置づけられてしまった。

 涙は出なかった。

 泣いて、母にすべてを暴露して、言いつけてやりたい! とすら思ったが、さすがにそこまでは子供ではなかった。


 戻ってきた母は、ニコニコしていた。

 給水所からお茶をくんできてくれたらしい。

 寝たきりの私の体勢を見て、荷物の中からストローを探し始めた。

 そして一瞬、あ、しまった……という顔をした。


「あ、そうそう……。明日ね。お見合いの写真を持ってくるわ」


 どうやら今日、写真を持ってくるつもりだったのに、入れ忘れてしまったらしい。


「ごめん。なんだかそんな気分じゃなくなった」


 母は私の言葉を無視して続ける。


「あのね、三件ほどあるんだけれど、一件は結婚暦があって、奥様と死に別れてしまった人なの。小さな子供がいるから、再婚を考えているみたいで……。ちょっと、と思ったんだけれどね、優しそうな人だったから見てみる?」


「母さん、私、もういい」


「もう一人はね、ずっと独身の人なんだけど、四十歳なのよ。いくらなんでも、初婚で四十歳……と思ったんだけど、考えてみたら麻衣も三十歳だしね。仕方がないわよね」


「……母さん」


「もう一つはね、三十八歳だから年齢的にはいいと思うのよ。でも、農家の人だから朝が弱い麻衣には辛いかなぁ? とは思ったけれど、どうかしら? 仕事もやめて田舎に行かなくちゃいけないし……。でも、母さんはこの人が一番いいかなぁ? と思っているんだけどね。父さんは、農家はきついから反対みたいだけど」


「母さん、私、もう結婚はいい」


 お茶にストローを入れて、母はしばらく考え込んだ。が、すぐに私の口元にストローを差し出した。

 左手でストローのカーブを整え、ちゅうと少し飲んでみる。温さが飲みやすかった。


「あのね、麻衣」


 いいにくそうに母が言葉を紡いだ。

 私は、ストローを口から外した。下から見上げる母の顔に、あぁ、本当に歳をとったなぁ……と、感じていた。


「あのね、母さん、思うんだけど。今の人は、絶対に駄目だと思う」

「え?」


 私はびっくりした。

 ずばり、渡場を駄目だ……といわれて、ショックだった。

 しかも、いきなり初対面の人をそのように言うのは、母らしくない。


「麻衣の家に、服とか取りに行って……気がついた。麻衣が紹介しないのは、たぶんそういうことなのかなって……」


 思わず絶句。

 私の家の箪笥の中には、渡場の服も入っている。それを母は見てしまったらしい。

 一人暮らしをしていても、男を連れ込むような娘ではない。恋人が出来たら、すぐに紹介してしまうような娘だ。

 それが、両親が知っている私だった。


「昨日ね……。会ってね。あぁ、この人かなぁ? って思ったけれど」


 紹介できないのは、できない理由がある。ぼけっとしているように見えて、母の勘は鋭かった。

 ガチガチと震える声で、私は、親についたことのないような嘘をつく。


「……勘違いだよ、あの人はそんなのじゃない。それに……恋人は……そのうち紹介するつもりで……」


「麻衣、このことは父さんには内緒にしておく。だから、まずはお見合いをして、ちゃんとした人を見つけよう、ね?」


 ちゃんとした人……。


 渡場が『ちゃんとした人』だなんて、千人にアンケートをとっても千人がノーというだろう。

 

「母さん、ちがう……。あの人は、母さんが思っているような人じゃない」


 自分さえも疑っているのに、つい弁護の言葉が出てしまった。

 これでは、一緒に暮らしているのが渡場であると、白状しているようなものだった。

 でも、母は悲しそうに首をふった。


「あの人は、女の人を不幸にする人だよ。目に出ている」



 渡場は、第一印象爽やかな男だ。

 しかし、母は渡場をたった数秒で見抜いてしまった。

 多少、結婚もせずに一緒に暮らしている……という先入観があったかもしれない。

 でも、それが渡場である、という証拠はなかった。

 母は、完璧に挨拶をしたはずの渡場の目を見て、渡場の内面の虚しさに気がついてしまったのである。


 渡場は、砂漠のような虚しい男だ。


 注いでも注いでも、砂はすべてを吸いつくして、更なる水を求める。

 それにも似た渡場の飢餓は、私を骨の髄までしゃぶりつくしても、きっと癒えることはない。

 そして、また……誰かを探すのだ。

 そうして、次々に女を食い尽くしていくのだ。

 相手がどれだけ自分に犠牲を払えるか? で、彼は愛情を計ってしまう。


 自分を愛したことで不幸になる女を、彼はこよなく愛している。

 愛されていることを確信して、彼は傲慢な幸せに浸る。


 目に出ている……。


 私を不幸にして、どんどん幸せになってゆく男。

 私が恐れていて認めたくない事実を、母はほんの短い一言で言い表してしまった。

 退院したらお見合いすることを、私は承諾した。


 渡場とは、別れるべきなのだ。


 もう、私には後がない。

 私も虚しいけれど、どんどん歳を重ねてゆく両親に、これ以上無駄な心配を掛けてはいけない。

 しっかりしなきゃ、幸せにはなれない。

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