男の逃げ道・3


 酔っていない時でも、記憶はなくなることがあるらしい。

 転倒が、よほど恥ずかしかったのだろう。申し訳なさそうに走りよってきた車の男の人に、私はにっこり微笑んだそうだ。

 その後、私はしゃきしゃき一人で起き出して、大丈夫ですから……などといいながら、スクーターを起こして乗って帰ろうとしたらしい。

 ところが、私の肩は動かず、スクーターは起こせず。結局、その人に病院に運び込まれた。



「本当にご迷惑をかけてしまいまして……」


 車の人は、ドアを開けたことで私が転倒したことを申し訳ないと思っているらしく、その後お見舞いにまで来てくれた。

 とはいえ、ライトもつけずに走っていた私に気がつけというほうが無理で、母はペコペコ頭を下げていた。

 スクーターに乗るときはジーンズに長袖、メット必ず……が、私にとっては幸いした。が。

 右肩脱臼の重傷で、鎖骨をピンで留める手術が必要らしい。

 手術後は退院できるものの、リハビリが必要で、腕が上がるようになるには二ヶ月はかかるという。

 この夏、買った水着は一度も手を通さないで終わりになりそうだ。



「おなかに引き続き、肩にもひどい傷ができるの?」


 情けない顔をすると、母がもっと情けない顔をする。


「せっかくお見合いの日程が決まりそうだったのにねぇ。どうしたものだろうねぇ」


 ぎくりとした。

 そういえば先日、お見合いするから……と、電話していた。


 電話といえば。


「お母さん、私の鞄の中に携帯電話が入っているはずなんだけど……無事かな?」


 前の機種は落としただけでバッテリーの部分がうまくはまらなくなり、使えなくなった。今度のは無事だろうか?


「え? あぁ、後で見てみるよ。でも、ここは病院だから、電源を入れちゃいけないんだって」


 渡場に連絡のしようがない。




 こそこそ付き合わなければならない関係は、こういうときに困った事態を引き起こす。

 一日二回も電話していた私が、電話もしてこなければかけても出ないのだから、渡場は心配しているだろう。

 時として異常なくらいに心配症な彼のことを思うと、花火ごときを見に行こうと思いたった自分が情けない。

 母に連絡をお願いするわけにも行かず、私は手術台に運ばれて、肩にピンを打ち込まれた。

 渡場が札幌に着くのは、夜の九時ごろだったはず。

 麻酔が切れて燃えるような痛さを肩に感じながら、ああ、今頃はもう、こっちに帰ってきて、私がいないことに動揺しているに違いないと思った。

 


 しかし翌日、渡場はお見舞いに来た。

 好きではないはずのスーツを着て、大きな花束を持って病室の前に現れた時、私は感動してしまった。

 久しぶりにあう上に、家以外の場所で、しかもロングショットで見るというのは新鮮だった。

 日焼けした顔に白いワイシャツはよく映えた。ダークなスーツは、ますますスタイルをよく見せる。一回り背が高くなったように感じた。

 その渡場が、ピンクの薔薇が何本入っているのかわからないほどの立派な花束を抱えているのだから、うれしくなっても当然だろう。

 ときめきを覚えた。

 渡場は、やはりカッコいい男だと、改めて思った。


 その時、病室には母がいた。

 渡場が、私の家族と顔を合わせたのだ。

 緊張したが、単なる見舞い客を装った渡場に、母は何も思わないか……あら、素敵な人ね、麻衣、どうなの? あの人は……程度のことを後からいうだけだろう。かつての入院時、杉浦にあった時のように。

 しかし、母は渡場を見て、一瞬微妙な顔をした。

 その後、渡場はこの上ない紳士な態度で挨拶し、母もそれににこやかに応えのだが。


 渡場の豪華な花がベッドの脇に飾られる頃、母は気を利かせて席を外した。

 母の姿が見えなくなったとたん。

 渡場は少しだけベッドのカーテンを引いたかと思うと、いきなり濃厚なキスをしてきた。

 私は涙が出そうになった。

 点滴の管に気を使いながらも、痛々しくなってしまった手を撫でてくれる。

 私も無事な左手を伸ばし、渡場の頬を撫でた。


「大丈夫か? 痛くないか?」

「うん……。ごめんね。心配した?」


 渡場の心配ぶりは、時として精神的な不安定を呼ぶ。

 愛情不信でいっぱいになってしまうと、おかしくなってしまうのだ。

 そのような状態に渡場を追い込むことが、私は一番嫌だった。


「びっくりした。電話が通じなくなったから、何かあったんじゃないか? てね。だから、職場に電話してみた」


 職場には、この状態が真っ先に伝わっている。

 渡場は、奇妙な不信感に囚われることなく、私に起こったことを冷静に突き止めてくれた。

 かつての子供っぽい独占欲から異常な精神状態に陥ってしまうような、そんな歪みは無くなってきている。

 それどころか、大人のゆとりすら感じられて頼もしかった。


「お土産を買おうと思って、自由時間をとっていたからね。その分切り上げて、飛行機を早いのにしてもらって、戻ってきた」

「ごめんね……」


 謝りながらも、私はありがとう……と心で言っていた。

 会いたくて会いたくてたまらなかった。

 すぐに……会いに来てくれた。


「でも……失敗した」

「え?」


 渡場の言葉に、私は嫌な予感を覚えた。


「俺は昨日、真直ぐここに来た。麻衣はちょうど手術中で、麻衣の両親がいた」


 手術後、渡場らしき人が来たことを、母は教えてくれなかった。


「星のサークルの仲間だと名乗った。お父さんに引き止められたけれど、出直すと言って遠慮した。麻衣のことが心配で動揺はしていたけれど、完璧な挨拶をしたと思う。でも……」

「でも?」

「麻衣のお母さんは、俺が誰だか気がついたらしい」


 あ……と思った。

 母は、人なつこいやや天然ボケの入ったタイプの人間で、誰とでもすぐに打ち解けてしまう人だ。私の気難しさは、おそらく父親似だと思う。

 だから、先ほどの渡場を見た時の反応は、すこし母にしては奇妙だったのだ。

 渡場も勘のいい男だから、母が感じたことをすぐに察したのだろう。


「麻衣、悪いけれど、俺は見舞いにはこないほうがいいと思う」

「え?」

「麻衣のお母さんは毎日来るんだろ? 俺は会わないほうがいいと思う」


 よく意味がわからなかった。言葉がまったく理解できない。

 聞き間違いに違いない……。


「……え? 明日は来てくれないの?」


 震える声で聞いてみる。


「麻衣が退院するのを待っているよ」

「……」


 嘘でしょう? と、聞きたかった。

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