男の逃げ道・2


 渡場がいない二日目の夜。

 短い言葉で終わる電話の後、窓ガラスを振るわせるような音に聞き入る。

 そっと窓を開けてみる。

 何も見えないが、これは花火の音だ。

 空で爆裂する音が、胸の中をかき乱すようだった。

 もう、花火大会の季節になっていたのだ。


 かつての私ならば、職場の仲間や星の仲間を誘って、率先して出かけたにちがいない。

 今年の私は、この音を聞くまで今日がその日であることすら、忘れていた。

 渡場と出会ってから、ブラックフォールに吸い込まれてゆくように、私の世界は縮まっていた。

 虚しい心に、花火の音は、ドカン、ドカンと響いてくる。

 祥子ならば、誘えば突然でも「まぁ、いいけれどぉ」とのってくるだろう。でも、絶交中だった。

 美弥や理子は……仲良し二人に割り込むほどに、私とは仲がいいわけでもない。

 杉浦、高井は、論外だ。



 私はひさしぶりにスクーターのヘルメットを押入れから出した。

 裏の高台に行けば、少し会場からは遠いけれど視界が広いからよく見えるはずだ。

 バッテリーが不安だったが、スクーターは三度めでエンジンが掛かった。

 近くのスタンドでガソリンを入れると、私はメーターを振り切って、高台に向かって走った。

 久しぶりの風が気持ちよかった。


 スクーターを買ったのは、どのような理由だっただろう?

 そう。一人で生きようと思ったから。

 車の迎えなんかいらない、二十代前半の、あの頃の強い女に戻りたかった。


 馬力のないスクーターは、少しの坂道でも苦しそうだった。

 がんばれ! 負けるな! と祈りつつ、やっと高台の公園についた。

 このようなところで花火などは見る人がいないだろう。と、思っていた私は甘かった。

 恋人同士が花火を見るとき、本当に花火を見たいから……とは限らないのだ。

 花火会場に向かって頭を向けた車がぎっしりで、とても私の居場所はない。その間にも、空にはちかっと花が咲き、遅れてパーンと音が響いてくる。


 私は再び走り出し、少し下にある橋の上に移動した。

 車は止めることはできないが、スクーターなら歩道に止めることができる。

 やや視界が悪いので、スクーターのシートの上に、膝を抱えて座ってみた。

 

 橋の上には、近所に住む人たちが何人かいた。

 小学生の男の子たち一団と、肩車された子供と父親、それと浴衣の女性二人組だ。

 恋人たちの中よりはマシだが、やはり一人は私だけだった。

 何度も上がる花火と、そのたびに上がる小学生の歓声を聞きながら、そういえば渡場と花火を見たことはなかったなぁ……と思った。

 おそらく、花火を見に行くようなデートは、もう渡場とはすることがないのだろう、とも思った。

 行きたいといえば、笑って連れて行ってくれるだろう。

 でも、もう私たちの仲は、そんなわくわくドキドキを楽しむようなものではない。

 出会って一年以上、一緒に暮らし始めてからも、もう半年以上がたってしまった。

 実質上、私たちは夫婦なのだ。

 でも、渡場が『たかが紙切れ』と言い切った結婚が、時間をよどませてしまっている。

 私を消耗させている。


 私たちはお互いを必要としているし、愛し合っている。それは信じる。

 でも、だからといって、簡単にけじめをつけて前に進めるほど、単純なことではない。

 渡場も私も、それを感じ始めている。だから……話題を避けてしまう。

 渡場は今、私を生殺しにして、私もそれを甘んじて受けている状態なのだ。

 苛々の原因はそこにある。


 私の手帳には、渡場の妻が住む家の電話番号が書いてある。

 でも、一度も電話したことがない。

 何度も話をするべきだろうとは思った。ドラマ仕立ての修羅場も想像してみた。


 でも……これはきっと渡場と妻の問題だ。


 妻が押しかけてこないことを、不思議に思う。

 電話の声だけで知りうる彼女が、私の存在に気がついて苛立ちを募らせている可能性は充分にある。


 そう思うほうが自然だろう。


 彼女は、渡場と同じ大学を卒業している才色兼備の女性らしい。

 もしかしたら、私が思う以上に立派な女性なのかもしれない。

 私という存在がある・なしに関わらず、自分達が乗り越えなければいけないことだ……と、問題を認識しているのかもしれない。

 とすれば。

 二人がなんらかの結論を出すことで、私の出る幕ではない。

 その結論が二人のやり直しであって、渡場と私との別れであっても、文句をいう筋合いはない。

 二人はもともと夫婦なのだから。


 結婚したい。

 この地獄から脱したい。

 幸せになりたい。


 そう強く思いすぎて、身動きが取れなくなってしまった時、私は、渡場に初めて抱かれた三十歳の夜を思い出す。

 ただ、幸せにしてあげたいと思った……その時の気持ちに戻るため。

 何の見返りも考えず、ただ、愛した。救いたかった。

 不倫であっても純愛はある。

 でも。

 気持ちはまったく変わっていないのに、純粋な愛を貫くには、私はすこし欲が深すぎる。


 手帳のメモを破って捨てた。

 それも、もう何回やっている行為だろう?

 また何日かしたら、調べなおしてしまうかもしれないのに。




 花火は華やかなフィナーレを向かえた。

 そして最後に、花火終了の音だけが鳴り渡った。

 気がついたら、私一人だけになっていた。


 スクーターのエンジンを掛ける。

 煌々と照らし出される街灯の中を、今度はゆっくりと走った。

 車も人も少ない田舎道。ぼっとしていた。

 電話ボックスの横に車が一台止まっていた。そこをパスしようと、少しだけハンドルを切った。

 その時、いきなり車のドアが開き、人が降りてきた。

 私は驚いて、慌ててブレーキを掛けた。

 右側に車体が傾いていた私のスクーターは、いきなりタイヤにロックが掛かったことでバランスを崩し、ひっくり返った。

 私は、街灯の明かりやら、星空やらがくるくると回る風景を見ながら、今、自分に何が起こったのかわからないでいた。


 何で、急にドアを開けるのよ!

 と、思った瞬間、ああ、私、ライトをつけるの忘れていた……と、思い出した。


 そうだよ。

 何もかも、私が悪い。


 皆で私を責めればいいでしょ……もう、どうにでもなれ。

 そこで記憶がなくなった。

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