男の逃げ道
男の逃げ道・1
渡場は、実はさほどおしゃれを気にする男ではない。
初めてのデートの時、普段とさほど変わらない格好で私を驚かせたが、実はそれが当たり前の男なのである。
ポロシャツやTシャツ、ゆったりとしたシャツを好み、下は常に綿パンかジーンズ。最近は短パンの時もある。
遊び人で気取り屋のイメージが、私に『渡場は着る物にこだわる男』という間違った認識を持たせていたらしい。
縛られることが嫌いなこの男は、スーツを着ることを特に嫌がった。
「麻衣が心配だから、本当は行きたくはないんだよね」
という大阪での学会だが、本当は、暑い場所にスーツのような堅苦しい服を着て出かけなければならないのが嫌なのだ。
「ワイシャツの第一ボタンがはまっていないわ」
「はめたこと、ない」
ソフトシャツで、指どころか手がすっぽりと入るくらいのゆとりなのに、渡場はそれでも苦しがる。
形よく結んであげたネクタイも、ジャケットを羽織らせてあげる頃には、嫌がって外してしまう。
「う……。本番の前に締めることにする」
自分の運転以外は乗り物に信頼がおけない……という渡場も、大阪へは飛行機に乗っていく。
出かける前に、かなりきつい酔い止めを飲む。
「お願いだから、車では行かないで。この薬、飲んだ後の運転は禁止しているよ」
「うん、大丈夫。俺の運転だから」
渡場にとって、薬でふらふらの自分の運転のほうが、列車やバスよりも安心なのだ。
つまり、渡場は公共の交通機関だと乗り物酔いするタイプなのである。
幼稚園のバス旅行でひどい目にあって以来、常にひどい目にあい続けているらしい。
大人になって免許を取ってからは、試したこともないほど、公共の乗り物を恐れている。
どんなにバスが便利でも、空港で高い駐車料金を払ってでも、公共の乗り物には絶対に乗りたくないらしい。
「私……もう少し、車の運転を練習したほうがいいよね?」
「いや、今となっては麻衣の運転で死にたくない」
私への信頼は、地に落ちている。
「いいか? 俺が帰ってくるまで、戸締りとかきちんとしてけよ。ドアチェーンは常にかけておけ。ブラインドを下ろしているからといって、タオル一枚で涼むなよ。泥棒が入ったら、抵抗しないで逃げるか、隠れろ。携帯の電源は常に入れておけ。飲みにいってもいいけれど、ほどほどにしておけ。杉浦とだけは行くな。わかった?」
私は苦笑してしまう。
渡場と暮らす前、私は五年近くも一人で暮らしてきたというのに。しかも、杉浦とは絶交中なのである。
「麻衣、本当に大丈夫か? さびしかったら電話しろよ。俺もするから……」
玄関口で、渡場は何度も何度も念を押す。
そして、私に「行って来ます」のキスをする。
こうして渡場は、四日間の出張に出かけた。
まさか、これが私達を裂く長い旅路になろうとは、私にも渡場にもわからなかった。
私は、渡場の飛行機がつく時間を見計らって、早速電話した。
それは、寂しいから……というよりも、車を運転して空港まで行った渡場が心配だったからである。
「もう寂しいなんて……麻衣は甘えっ子だよなぁ」
そういいながらも、渡場の声は優しい。頼られていると思うことが好きな男なのだ。
「大丈夫? お土産は何がいい?」
電話嫌いな渡場ではあるが、できるだけ自分の声を聞かそうとして、もはや土産の話を振ってくる。
「うん、何でも。直哉が帰ってきてくれるだけでいい」
「甘えっ子なんだから……」
やっぱり寂しい。渡場がいないと寂しすぎる。
夜も夜で電話する。
言葉は、それほど長くはない。話すことはあまりない。
ただ、お互いが離れていても、存在しあえていることを確認する……そんな電話である。
その後に掛かってきた玲子とのつまらない電話のほうが、ずっと長くなってしまう。
「麻衣……。私困っているの。向こうのお母さんがね……」
玲子の前には、結婚という夢が実現し、現実がのしかかっていた。
「何で、結納金を入れなきゃいけないの? って……。なのに、嫁入り箪笥も新調しないなんて非常識……って言ってきて」
確かに、結納金などをやり取りしない結婚も増えてきた。ただし、その場合は嫁入り道具などの新調もしないのが普通だ。
私のように一人暮らしが長い女だったならば、生活に必要なものは揃っているし、たいそうな家具が入るようなところには、最初から住めない。結婚の時よりも、家を新築したときなどに買い揃えたほうがいいに決まっている。
結婚にあたって新品をそろえるのは間違ってはいないが、その場合は、当然準備金として結納金を入れるものだろう。
奇妙なところで伝統を重んじて、都合のいいところで今時の考え方を主張する。私の脳路に、見合いの席に遅刻してきても詫びの一つも言わない老婦人の顔が浮かんだ。
この結婚は、間違いなく玲子の夢を壊す。
玲子が今使っている箪笥は総桐の立派なものであることを、私は知っている。
彼女は、今までのキャリアで貯めたお金を結婚してからも使えるようないいものを買うことに使ってきた。
長い間、結婚を夢見てきたのだ。自分の好きなものをそろえて、結婚後の生活を組み立ててきた。その中に、夫の存在を夢見て、がんばって働いてきたのだ。
真珠のネックレスだって、私の持っているようなまがい品ではない。家に遊びに行けば、コツコツ貯めたロイヤル・コペンハーゲンのティーカップでお茶を入れてくれる。玲子の持ち物は、それだけで価値があるような物ばかりなのに。
「使い古しを持って、まさかお嫁にはきませんよね……って」
使い古しではない。
それは、玲子の夢の結晶。
玲子の貯金がどれだけあろうとも、親がまずまず金持ちであっても、あれだけこだわった物をすべて新調できるゆとりはないはずだ。
大きな成金趣味の指輪をギラギラさせているような婆さんに、たとえ華美ではなくても本物を愛する玲子の趣味のよさを理解できるはずがない。
「玲子、今からでも遅くはないよ。もう少し考えたら? 本当にその人でいいの? その人を愛せるの? そのお母さんを家族にしていいの?」
「……。両親もね。さすがに怒ってしまって……。私が嫌ならば、やめてもいいって言ってくれたんだけど」
玲子の声は、かつての愚痴っぽい泣き声に変わる。
「私、だめなの。これを逃してしまったら、もう後がない。これからもたった一人でいなければならないと思うと……」
電話を切ったのは、やはり朝方。
やめなさいよ、そんな男と結婚するのは……。目を覚ましなさいよ……。の連発に、玲子は泣いてできないという言葉を繰り返す。
「かつての私には戻りたくないの。あの孤独にはもう耐えられない……」
私はますます憂鬱になる。玲子と私は似ているのだと思う。
今の幸せを無くしたくないから……私は、渡場に妻とのその後を追及できない。
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