唯一の味方・最大の敵・4
翌朝、渡場はしわくちゃになった礼服を脱ぎ捨てた。
私はしわくちゃになったスカートのまま、その礼服を拾ってハンガーに掛けた。
本当に恥ずかしかった。
しがみついて放さなかったから、お互い服も脱げずにそのまま寝てしまったのだ。
「俺、苦しくて死ぬかと思った」
「ご、ごめん……」
一瞬、渡場が時々無呼吸になることを思い出して、私は青くなった。
しかし、渡場はけろっとしていた。
「まずは、葬式の後は塩を用意する。枕元に立って、いろいろ言われると……ほら、困るだろ?」
「え? もしかして出たの!」
渡場は、霊を見る人なのだろうか?
「出ない。俺は霊の存在は信じない。でも、塩は必要! 気分の問題」
「それって……本当は怖い……とか?」
「その次」
渡場は話題を変えた。
「泥棒が入ってきたと思ったら、攻撃よりも防御を考えること。命最優先。どうせ、麻衣の非力さだったら、押し倒されておしまいなんだから」
確かに私は、渡場が片手で持ち上げるバーベルを、両手でも持ち上げることができない。
「気が動転しているときに刃物を持たない。俺にも向けない。死ぬかと思った」
「ご、ごめん……」
渡場の言うことは、時にごもっともなことが多い。
間違っていると思われることも、どこかに真実があることが多い。
「それと、もっと俺を信じること」
何も言えなかった。
私のお昼はわびしくなった。
芋の煮っ転がしや卵焼きやコロッケを美味しそうに食べる祥子と喧嘩してしまったからだ。
寂しさに負けて仲直りするには、祥子の言葉は私にはきつすぎた。
がやがやと聞こえる声は、ここまで人が集まると、まるで途切れることのない潮の音だ。もはや、人の声なんかじゃない。
休憩所の仕切りを越えて、かすかに煙草の煙が回ってくる。向こうの壁がこちらより黄色いのは、長年のヤニのせいである。油っこい定食に箸をつけると、なんだか自分の中にもヤニが蓄積されたような気になってしまう。
広くて人の多い食堂の中が、こんなに孤独な場所だとは思わなかった。
私の横には売り場の同僚がいて、ドラマの話とか、新しいブランドの話とか、やれ、どこどこのダレダレさんはどうのとか、話し続けてはいるのだが、私は孤独だった。
高らかな笑い声を上げてみせても、やはり虚しかった。
祥子のように……何でも相談できる友人はいない。
祥子は高校時代からの友人だった。
腐れ縁ともいうのかも知れないが、気を使わなくてもいい友人だった。
大人になるということは、孤独になるということだ。
就職してからも、もちろん友人はたくさんできた。
でも、高校時代からの友人とは、違う。
大人になると、必ずどこかで利害が絡んでくるから、どこかで必ず気を使っている。
「祥子、最近太りすぎ!」
「麻衣は、口赤すぎ!」
「何よ、その、口赤いって……」
「その新色の口紅は似合わない」
「だって、試供品でもらったんだもん。全色試さないともったいないでしょ?」
「ほんと、あんたってケチケチ臭いところあるよね。その財布の口ぐらい、毒舌の口も閉まっていると、もっとかわいく思えるんだけれどねぇ」
そんなくだらない会話で笑えるような友人は、大人になると作りにくい。
たとえば……。
今となりで馬鹿笑いしている同僚は、新しい恋人ができたばかりで、浮かれている。
見えていないつもりかもしれないけれど、笑って上を向けば、かすかに首筋が制服からより多く見えて、キスマークがちらりと覗いてしまう。
誰もそれを注意などしない。
余計なおせっかいを言って、嫌な思いをするのは勘弁だし、彼女がどのように噂されようが、知ったことではないのだ。
誰もが影で、そんな下手くそなことをする彼氏をあざ笑っているだけだ。
ロッカーで着替えているときも、隣の人と挨拶をして、世間話などをして笑っていても、何でも話せるわけではない。
常にチェックされている。
昨日と同じ服を着ていないだろうか? スカートは? ブラウスは? そして……下着は?
日々、本当に疲れてしまう。
社会というのは、自分がどれだけ【常識人】で【立派】であるかをアピールし、その引き立てに誰かを【非常識】で【駄目な人】にしなければならないらしい。
そのターゲットになってしまえば、やってはいられない。
優しい顔をした人を簡単に信じて自分をあからさまにするのは、本当に愚かな行為だ。
弱みを与えてしまうことになる。
顔に出やすいバカな私は、同僚の制服からのぞくキスマークのようにあからさまに自分をさらけ出して、皆の笑いものになっていたのだ。
強がって無理している私を、誰もが駄目な女だと影で指差していたのにも気がつかないで。
……それでもいい。
私だって、影で他の人の噂をして笑うこともあるのだから。
表面は同情した顔をしてみたりして、でも、内心は、あの人よりはちょっとはマシね……なんて、自分を慰めたりしていて。
そう……たぶん、玲子に対してがそうだったのだろう。だから、先を越されて焦ったのだ。
私だって、嫌な女だ。本当に駄目な女だ。
でも……彼女だけは許せない。
「まぁ、いいんだけどねぇ……」
という口の裏で、私を軽蔑して笑っていた祥子が許せない。
祥子だけは、信じていたのに。
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