唯一の味方・最大の敵・3
キン……コン……
ゆっくりと鳴るベルの音で目が覚めた。
酔っ払ってしまったせいか、ソファーの上で服をきたまま眠っていた。
こんな時間……。そう、もう一時を回っていた。
気持ちが悪い。私は酔っているらしい。
しばらく静かになる。ベルは……気のせいだったよう。
が……。
鍵を開ける音がする。
突然、戦慄が走った。慌てて跳ね起きた。
工藤が訪ねてきた夜を思い出していた。でも、ありえない。
鍵はこの間取り替えた。合鍵なんて、誰も持っていないはず。
渡場は……今日は妻の父親の告別式で、いい夫ぶりを演じているはずだ。帰ってくるはずがない。
あまりにもそっとドアが開く。
泥棒だ!
私は慌てて台所から包丁を持ち出した。
そっと居間の扉の横壁にへばりつく。
ところが、パッと電気がついた。
電気をつける泥棒はいない。
真っ黒なスーツを着込んだ渡場が居間に入ってきた時、私は驚いてそのままだった。
「う、うわ! 麻衣。何やっている!」
振り向いて、渡場が文字通り飛び上がって驚いた。
私は包丁を両手で握り締めたまま、渡場の背後にたっていた。
「な、何で直哉なの?」
「何でって……。明日帰るつもりだったけれど、麻衣があまりにも怒っていたから、さすがに不安にもなるでしょう?」
渡場は降参とばかり手を上げた。
よく考えてみれば、泥棒がベルを鳴らして入ってくるはずがない。
それに、あのベルの鳴らし方は、間違いなく彼だった。
「でも、電話なかった……」
「俺、充電器持っていくの忘れた。携帯の番号を控えていなかったから、携帯にかけられなかった。一応、公衆電話からかけたけれど、留守電だったし。しばらく、車の中で麻衣の帰りを待っていたけれど、あまりにも遅いのでもう一度かけたら、今度は不通だったから、もしかして……と思ってね」
私はもっと早くに帰ってきていた。
でも、電気を消していたので、渡場は留守だと思い込んでしまったのだ。
いったい何時間、外で待っていたのだろう?
「まずは包丁を下ろせよ。それから、清めの塩……」
「何で直哉なのよ」
「何でって……塩。もしかしたら、幽霊かもしれないぞ?」
くだらないジョークは、渡場らしからぬひどいセンスで笑えない。
私は包丁を持ったまま、倒れこむようにして、渡場にもたれかかった。
「おい、ちょっと。酔っているな? 刃物は危険だぞ?」
渡場はそういうと、私の指を開いて包丁を取り上げた。
渡場が台所に包丁をしまう間も、たんこぶのように渡場にしがみつき、離さなかった。
「何で直哉なのよ!」
私がしつこいものだから、渡場はついにため息をついた。
「何で俺じゃあダメなわけ?」
「ダメに決まっているじゃない! 直哉なんか、私をダメにする男なんだから! 直哉のせいで私はうんと悪い人間になっていって、みんなに嫌われて怒られてひどいことになっちゃうんだから! 全部直哉のせいなんだから!」
そういいながらも、私は渡場にすがって離れなかった。
なぜ、そんなことを言ってしまうのかもわからなかった。
渡場は、私を一度引き離そうとしたが、あまりにもぴったりとすがってくるので、あきらめたらしい。
今度はそのまま持ち上げて、ソファーの上に横たえた。
「麻衣は今、酔っ払っているし、精神的にまいっているんだよ。それが俺のせいだったとしたら……たぶん、そうだろうな、ごめん」
私は本当にわがままな女になって、声を上げて泣いた。
「麻衣は全然悪くない。悪いのは、麻衣を不安にさせる俺だから……。俺に八つ当たりしてもかまわない」
渡場は、ソファーの上で半身になって、私の頬や額、髪を撫で続けていた。
「でも、直哉は私のこと、悪女だって言ったもん」
「うん、本当に悪い女。でも、俺はそういう麻衣が好きだ。それで許してくれる?」
「嫌。だって、皆、私のことを責めるようになったもん」
「その分、俺がほめてあげるよ」
微笑んだ頬にえくぼが出る。
口元から、作り物の歯がこぼれて、悪魔の様相にぞっとする。
渡場は、私をどんどん不安にさせてゆく。
私のすべてを奪い取ってゆく。価値観のすべてを破壊しつくして、私をこころもとない存在にしていくのだ。
そして、唯一の味方になる。
英語が話せない。
——英語もフランス語もドイツ語も通訳してあげるから。
息継ぎできない。
——泳がなくて大丈夫なように、橋にでもいかだにでもなってあげるから。
結婚できない。
——ちゃんと、お嫁さんにしてあげるから……。
世界中の誰もが麻衣の敵になっても、俺だけは麻衣の味方。
たとえ、麻衣がどんなに間違っていたとしても、俺は必ずかばってあげる。
まるで、夢物語のようなことを、渡場はラブソングのように囁く。
私は、やっと楽になれる。
やっと自分の居場所を見つけることができるのだ。
が。
うっとりと気持ちよく彼の胸でくつろぎながらも、かすかに残った『私』が悲鳴をあげている。
こんなことをしていたら……。
頼るべきは……本当に渡場しかなくなってしまう。
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