悪女・8
帰ってこないといっていた渡場が戻ってきたのは、玲子の電話が切れた時だった。
珍しく合鍵で開けて、ばたばたと入ってきた。
「麻衣、悪かったな。怒っているか?」
私は、その日あったことが頭をぐるくる回っていて、すぐに返事ができなかった。
渡場は、小首をかしげて何度も私の顔をチラチラと覗き込む。そして、私が自分のせいで不機嫌なんだと思い込んだのか、抱きしめて何度もキスをした。
しかし。
「麻衣、悪いけれどこれからまた出かけてくる。明日と明後日も、帰れない。明々後日戻るから」
「何があったの?」
「実はね……。今日、妻から電話があって。向こうのお父さんが突然亡くなったらしいんだ」
私は、え? と小さな声を漏らした。
「どこか悪かったの?」
渡場は、すこしだけ言いよどんだ。あまり詳しいことは知らなかったらしい。
「うん。いや……。心臓に持病を持っているとは、言っていたような気はするんだけど、俺、あまりアイツの実家に顔出していなかったし」
アイツ……という言葉で、渡場が妻を表現したことが、今まであっただろうか? 思い出せない。
「明日が通夜だ。抜け出せない状態だったけれど、礼服を取りに行くといって、出てきた」
いくら別居中だとはいえ、渡場は結婚している。
妻の父の死には、義理の息子として参列し、お悔やみを受け、向こうの母親には息子の顔をするのだろう。
そして、親族には妻をいたわる夫の顔をするのだろう。
誰もが、渡場と妻を夫婦と認めて挨拶し、渡場もそれを受けるのだ。
「……嫌だ」
「え?」
私の声に、渡場は驚いたようだった。せわしくクローゼットの中を探っている手を止めた。
「嫌だよ、直哉。行かないで……。私の一生のお願い!」
渡場は困った顔をした。時間的猶予はあまりなかったに違いない。
「何で私がいるのに、奥さんの親戚の前で仮面夫婦を演じるの? そんなの、嫌だよ」
渡場は笑って私の頭をくちゃくちゃ撫でた。
「どうしたんだよ? 麻衣らしくないわがままだなぁ」
「わがままでも何でも嫌ったら嫌! 直哉は、そんな形式ばった形だけのことなんて、嫌いじゃない!」
「そういう麻衣は、いつもけじめだけはつけろって言っていたよ。どうしたの?」
「そうだよ! けじめをつけるなら、どうせ別れるんだったら、そんな体裁不要じゃない! 行っちゃ嫌だ! 絶対に嫌!」
私は泣いて抱きついた。
すごいわがままだとはわかっている。でも、絶対に我慢ができなかった。
「麻衣、向こうのお父さんが亡くなったんだよ? そんなことを言っている場合じゃないだろ?」
「行くんだったら、もう二度と戻ってこないで! 私、別の人と見合いして結婚するんだから!」
渡場は、さすがに驚いて目を見開いた。しかし、私の肩をぽんと叩いて笑っていった。
「そんなこと、麻衣ができるわけないだろ? 明々後日には帰ってくるから。ちゃんと俺のこと、信じて待っていろよ」
そういうと、渡場は足早に家を出て行ってしまった。
「待っているわけがないじゃない! 直哉のバカ!」
私はもう閉まってしまったドアに向かって叫び、手元にあった電話の子機を投げつけた。
渡場に出会って、私はわがままで悪い女になったような気がする。
杉浦には罵られるし、玲子には先に結婚されるし、礼儀は欠けと怒鳴り散らすし……。
私のことを心配してくれる祥子を悪く思ったり、高井たちに嘘をついたり。ついでに職場の付き合いも悪くなるし。
最悪で最悪で最悪の嫌な女だ。
絶対に、こんなのは私らしくない。
本当の私なんかじゃない!
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