悪女
悪女・1
駐車違反が厳しいらしく、渡場は家から数分歩いた公園の横に車を止めていた。
その日、渡場は私を送ってくれ、結局そのまま私の家に居座った。
再び抱かれたけれども、完全に恐怖心は無くなっていて、私は女の幸せに骨の髄まで浸っていた。
渡場も……だろう。その日は私の傷で遊んで気を紛らわす必要はなかった。
「麻衣に、妻のことをいっておいたほうがいいな」
突然、渡場が言い出した。
だるい体が、急にしゃきんとした。
渡場が妻や子供の話をするのは初めてだった。
確かに話が出たことはあるが、それはいかに愛していないか? を、訴えるだけだったのである。
だから、私は妻子と比較されて愛を囁かれても、悲しかった。
渡場は、妻子をまるで物のように扱い、非情さを私に見せつけていた。
「俺と妻は、学生時代に出会って、普通に恋をして結婚した。俺は、普通に結婚生活を送れるとばかり思っていた」
自分の好きな人が、別の人と恋をした……と聞かされるのは、正直気持ちがよくない。
それでも気にならないのは、渡場の腕が枕しているのは、今は私だからかもしれない。
「妻が妊娠し、中毒症を起こして入院してから、俺は変わった。一人になって、ほっとしたんだ。普通の結婚生活が、俺にどれくらい負担をかけていたのか、しみじみ実感してしまった。
その時から、別の生き方がある……と、思うようになった。こんな生活ではなく、もっと自分らしい生活だ。そう思ったとたん、妻を愛せなくなった。
難産の末、産まれた息子は体が弱くて、アトピーとがひどくて、妻はきりきりして、人が変わったみたいだった。女の魅力がなくなって、すっかり母親になってしまい、俺は全然抱きたいとも思わなくなった。
その間、俺は女と遊んでいたんだから、顔を見れば気が狂ったように怒っても当然だったかもしれない。まともな人間じゃない、と散々言われて、ますます妻への愛情が冷めてしまったし、子供のほうは初めから愛しているとは思えなかった」
「子供……。女の子だったらよかったね」
なんとなく、そう思った。
私を抱き寄せる渡場の手が、少しだけ強くなった。額に優しくキスされた。
「麻衣は、そこまで俺のこと、女好きだと思っているんだね?」
「……ふふ、ごめん」
私は、渡場の堅くしまった腕にキスを返す。
でも、冗談で言ったのではなかった。
渡場は、やはり本気で妻を愛していたのだろう。
彼女を手に入れるために、かなりがんばったのかもしれない。おそらくは、自分をまったく別人にしてしまうほどに。それこそ、まっとうな男を演じきっていたのだろう。
渡場は自分らしくあることを強く願う男だが、その反面、愛されるためには必死に努力する男でもある。私も身にしみているので、わかる。
だから、妻と離れてほっとした……というのも、なんとなく納得できるのだ。
だが、子供ができたとたん、妻の愛情は子供にいってしまったのだ。
飢え死にそうなくらい愛情に飢えていた渡場にとって、おそらく耐え切れない苦痛だったに違いない。
子供が同性のライバルという存在ではなく、少しでも守ってあげたいと思えるような異性であったならば、渡場の心のあり方もまた違ったのでないだろうか?
「まぁ、確かに麻衣にそう思われても仕方がない。俺は、本当に妻にとってはひどい男だった。子供にもね。
でも、愛していないものはどうにもならない。努力したけれど、愛せなかった。
まともなヤツは、それでも家庭のためにどうにかするかも知れないけれど、俺は俺らしくないのが嫌だった。家族の犠牲になって生きるのは嫌だ、と思った」
渡場らしい。
でも、少し渡場らしくない。
渡場は、恋愛のかけひきを楽しむことよりも、癒されたくてたまらない人間なのだ。
ひたすら、優しい愛に飢えている。
子供の頃、親の愛以外は何不自由なく与えられてきた渡場にとって、わがままと自由だけが慰めだったのではないか? などと思う。
両親の愛情に恵まれた子供たちの中、わがままと自由を誇りにして、優位を保って育ってきたのではないだろうか?
そんな気がする。
渡場ならば、子供の頃から優秀だったことだろう。誰もが渡場を羨望のまなざしで見て、憧れたことだろう。
渡場は、渡場なりのかっこよさを確立することで、自分を保ってきたのだ。
家庭のために犠牲になることを『まとも』と言い切ってしまえば、渡場の今までは、すべて否定されてしまうことになる。
家族サービスする男を、渡場は軽蔑していた。
きっと、大人の愛情なんて、子供には必要ない……と、生きてきたからなのかもしれない。親が子供の奴隷にならなくても、子供は立派な人間になれる、なってやる、と生きてきたのかもしれない。
見方を変えれば強い男だ。
でも、寂しい男でもある。
その裏で手料理を手放しで喜ぶ。
どこかで、やはり親に甘えたかったのではないか? と時々感じる。
渡場は、そんな男なのだ。
「そのうち俺は家を飛び出して、ある女のところに転がり込んで三年間暮らした。その間、まったく家には帰らなかった」
「……じゃあ、この間の誠心誠意の恋人は、本当にいたの?」
カラオケで話した失恋は作り話だろうと、最近はすっかり思い込んでいた。
「ああ、一昨年、グリーンフラッシュを見たとき、彼女のためにけじめをつけようと決心した。が……その結果は、前に話したとおり」
ショックでないといえば嘘になる。
もちろん、渡場には山のような女性遍歴があるとは思っていた。
でも、「麻衣だけ」という愛の言葉の連呼のために、自分だけが特別だと思いつつあったのだ。
それでも、渡場の誠心誠意が虚構でなかったことはうれしかった。
私の気をひこうとして、適当にでっち上げたわけではなかったのだ。
だいたい、誠意って何だろう?
思えば、あの工藤だって、私には誠意がなかったけれど、妻には誠意を示したのだ。その後のよろめきは置いておくとして。
今から思うと、なぜ、渡場には誠意がないと思い込んでいたのか、よくわからない。
もてる男は誠意がない……という、私の思考パターンは、いったいどこから来ていたのだろう?
「その人は、浮気は魔が差しただけだといって、俺に泣きついたけれど、俺は許さなかった。別れるなら死ぬとわめいて、本当に自殺未遂をした。そして、助かったあとは、仕事とかも全部やめて、ふるさとに戻ってしまった」
「……何で許さなかったの?」
「許せなかったから」
「でも……その人、死にたいほどに直哉のこと、愛していたんじゃないの?」
「うん……でも、俺はへんなんだ」
渡場は、しんみりと言った。
「彼女が死にかけた時、かわいそうだなぁ……とは思った。でも、愛情はすっかり冷めてしまった」
その言葉を聞いて、ざわっとした。
渡場の心は、まるで何もない海岸のようにわびしかった。
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