浮気者・5
鍵を取り替えたものの、何ヶ月にも渡って、工藤に合鍵を持たれていたかと思うと、怖かった。
もしかしたら、私が留守の間にも上がりこんでいたかと思うと……ぞっとして一人でいるのが辛かった。
渡場がいたら……そればかりを考えてしまう。
やはり、渡場に会いたくてたまらない自分がいた。
あのような別れをしたのだから、どうにもならないことはわかっている。
それでも我慢ができず、私は渡場のはがきをもって、仕事帰りに訪ねてみることにしてしまった。
女といちゃいちゃしているところでも見れば、今度こそ忘れられるだろう、などと、いろいろ理由を見繕ってはみたものの、ただ会いたいというのが本音だったと思う。
土地勘がなくて困った。
バス路線の近くらしいが、よくわからずタクシーで乗り付けた。
幹線から小さな道を一本入った場所は、寂れてはいるけれども車の音がうるさく、けして環境がよさそうな感じではなかった。
建物は長屋で木造。築年数はかなり古そうだ。
今時、このような建物が? というひどさである。私はもう一度、住所を確認した。
間違いない。
しかし、人のいる気配はない。しかも、車もない。
渡場は、ここには住んではいないのでは? という疑問がわいた。
私のもとに転がり込んだように、別の女のもとにいるのかもしれない。
家に表札はなかった。
私は帰ることにした。
いったい、何をしにきたのだろう? ここまでタクシーまで使って。ばかばかしい。
帰りはバス停を探そう……。
そう思って、歩き始めた時だった。
「麻衣!」
懐かしい声だった。
懐かしい……と言うには少し早すぎるだろう。
でも、渡場と私は毎日一緒にいるのが当たり前になっていたから、三週間ちょっとの別れでも懐かしかった。
「どうした?」
まるで、当たり前のように渡場が話しかけてきた。
銭湯にでも行っていたのだろうか? 髪は洗いざらしで、トレーナーとジーンズ、サンダルのいでたち。タオルを肩に掛け、洗面器を持っていた。そして、短くなった煙草が指にはさっまっている。
まるで少年のようだった。会えてうれしかったが、初めて会ったときの気取った渡場も知っているので、少し痛々しかった。
「どうしたって……ちょっと様子を見に来ただけ。そ、それじゃあ……」
私がそういうと、渡場は煙草を捨ててもみ消した。
「ああ、そうか。じゃあ……」
呆然としている私の前を、渡場は通り過ぎ、部屋の鍵を開け始めた。
何を期待していたのだろう? 渡場は宣言していた。別れた女は追わないと……。
私は、渡場にとって、もう過去の女なのだ。
泣きたいのをこらえて、私は歩き出した。数歩歩いたところで、渡場の家の鍵が開いた。
「麻衣、何をしている? 早く入れよ」
ドアを開けて、渡場が手で合図した。
渡場とやり直す気持ちなんてない。
だが……。
私の足は勝手に小走りでもどり、私の体はそのドアの向こうに吸い込まれていった。
家の中は狭かった。
台所と居間が兼用で、扉はたぶんトイレだろう。風呂はない。
少し、かび臭かった。
台所には、カップ麺のカップが散乱し、コンビニ弁当の空もあった。
床には、組布団が万年床となっていて、枕元に雑誌が転がっている。
歩くと床がきしんだ。
疲れた生活の臭いはしても、女の香りは感じられない。
予想とはあまりにも違うことに、私は居心地の悪さすら感じていた。
渡場はカーテンを閉め、裸電球に電気をつけた。
「座れよ」
そう言われても座るところに困り、仕方がなく万年床の上に正座した。
渡場りは、その向かいに腰を下ろした。
私の膝の上に並んだ手に自分の手を重ねて、きゅっと握った。
「あ……あの、ただ、様子を見に来ただけで……」
「ああ、わかっている」
そういいながらも、渡場はこれ以上ないというほどにうれしそうな顔をした。
「もう、帰る……」
「ああ、うん」
渡場の手が、私の首に掛かった。それは、抱き寄せるときの彼の癖で、私は体を堅くした。
「もう、私たち、別れたんだから」
「うん……そうだった」
言葉とは裏腹に抱き寄せられた。覆いかぶさるようにして、渡場は私の唇を奪った。
「……う、そんなつもりじゃ……」
「もう、いいから」
その声は吐息だった。耳を軽く唇で噛まれた。
渡場は、片手で私の頭をささえたまま、ゆっくりと体を預けてきた。
もう片方の手は、もう私の太ももを撫でていた。
かすかな抵抗も無視されて、そっと万年床の上に組み敷かれてしまう。床がきしりと音を立てた。
「……あ……」
触れられて声をだした私の耳元で、渡場は囁いた。
「帰ってきてくれてうれしいよ。麻衣」
あれほど受け入れることを拒んでいた体が、すんなりと素直に愛撫に反応し、すべてを受け入れた。
離れていたことが、私のかたくなさを解いたのかも知れない。
でも、おそらく、かつての食い尽くすような激しさがなくなり、とても優しくされたからなのだと思う。
ついばむような優しいキスに、愛されている……と、心から感じた。
頭の片隅で、あぁ、また悪魔に魅入られた……と、思いつつ、渡場の胸の中が心地よかった。
帰るべきところに戻ってきた……そんな気がして、渡場の胸に何度もキスをした。
すべてが終わった後も、私は渡場の胸の鼓動を聞きながら、腕枕されていた。
「本気で麻衣にふられたと思った」
渡場が私の髪を撫でながら、そう言った。近くを車が通っただけで、裸電球が揺れていた。
「……私も……もうだめだと思った」
胸に耳を当て渡場の鼓動を聞きながら、私もつぶやいた。
でも、それを聞いて、渡場は少し笑った。
「俺は、だめだなんて思わなかった。麻衣のいう『まとも』になったら、またやり直せると思っていたから」
私は、目を見開いた。
「離婚が成立したら、迎えに行けばいいと思っていた。俺はいい男だから、たぶん、麻衣は俺をまた選ぶ」
……相変わらずのうぬぼれ。
でも、そこが渡場のいい所なのかもしれない。
自分に自信があるからこそ、辛いことにも前向きになれる。
「ここを借りたのは、とある人のアドバイスからだ。別居の証拠を作っておいたほうがいいってね。麻衣のところに転がり込んでいたままだと、麻衣にも迷惑をかけるかもしれないから、とも言われた」
私が無駄な日々をぼっとして送っていた間にも、渡場はいろいろ考えていたのた。
「じゃあ……直哉はここに住み続けるの?」
私は不安になった。ここでの生活は、あまりにもひどすぎる。
「うん。でも、女のところに転がり込むかも? 実質的には」
女? 私が奇妙な顔をしたので、渡場は私の頬を指で挟んできゅっと押した。
「ただ、ここの支払いと妻への支払いで金がない。ひもかも知れない男でも、麻衣が受け入れてくれるならね」
渡場は笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます