浮気者・4
「それですっかりふぬけちゃったってわけ? まぁ、でも、長い目で見たら正解だよ」
最近気に入っているらしいチュー梅酒をごくりと飲んで、祥子が言った。
「うん……。私もそう思う……」
ホッケをつんつん突きながら、私も言う。食欲も出ない。
一人の部屋が寂しくて、渡場がいなくなってから外食ばかりを繰り返している。
祥子は一番付き合ってくれて、しかも話を聞いてくれる。友達のありがたさをしみじみと感じた。
「まぁ、とにかく。しっかりしなさいよ。ふぬけていると、そこにつけこもうってヤツが現れるものよ。またそれが妻子持ちだったりすると、何にもならないから」
祥子のしっかりを、本当に分けてもらいたい。
私はただ、皿からはみ出しているホッケを、表にしたり裏にしたりしているだけで、大好きなお酒すら進まない。
「そういえば、工藤の妻、おめでたらしいよ」
祥子の言葉に、ホッケが皿の上にぼたりと落ちた。
「なんかそういう時って、男は欲求不満になって浮気しやすいんだよね。工藤、麻衣に気があったみたいだから、気をつけな」
「あはは……まさか」
私は笑ってチューハイを飲んだ。
さすがの情報通の祥子も、今回ばかりは考えすぎだ。
工藤と私の関係なんて、とっくのとうに清算されている。
売り場の飲み会には、率先して参加した。
ただし、もうバカ騒ぎすることはない。やはり年をとったのだなぁ……と思うけれど、騒ぎたい気持ちが無くなってしまった。
ビールが苦い。
上司から注がれて、ニコニコ飲むけれど、かつてのように一気飲みすることはなくなった。
「やっぱり一度胃を悪くするとダメですねぇ」
などと、いまだに言い続けている。
このようなところに、渡場の余韻が残っている。
渡場からの連絡は、たった一通のはがきだけだった。それも、パソコンで印刷してある。
【引越ししました】のはがきだった。
結局、渡場は妻のもとへは帰れなかったらしい。
妻が入れなかったのか、渡場が帰らなかったのかはわからない。
もしかしたら、その新しい家には理子が一緒に住んでいるかもしれないし、別の女がいるのかもしれない。
あの男は、そうやって次から次へと渡り歩く生き方をするのだろう。
そこから逃れられたのは、喜ばしいことなのだ。
私は自分に言い聞かせる。
むしろ……結婚に縛られて逃れられずにいる妻は、もしかしたら不幸な人なのかもしれない。
渡場との結婚生活は、もう何年にも渡って不毛なだけだろう。
部屋には渡場が残していったものがある。
ひとつはパソコン。これはとても役に立つ。
ひとつはバーベル。これは何にも役に立たない。
そして、ただ……抜け殻になってしまったような私。
これがもっとも役に立たない。
一人になった寂しさではない。半身が失われてしまったような、そのような寂しさなのだ。
シングルベッドが広すぎて、私は中々寝付けない。
留守番電話には、やはり渡場の名残がある。
渡場の声ではなく、テープが全部無くなってしまいそうなくらいの、玲子のメッセージだ。
事情を知っている祥子と飲むよりも、何も知らない杉浦と飲むほうが気がまぎれた。
一時期は体調不良で断っていた夕食も、なんとなく付き合ってあげるようになった。
家に一人でいることが寂しいからなのだが、杉浦の優しさが心地よかった。
私に元気がないことに気がついて、一生懸命いろいろしてくれる。星の本をくれたり、CDを貸してくれたり。
本当に、この人が好きになればよかったのになぁ……などと思ってしまう。
楽しい話でそのときは笑えても、家に帰ってきてしまうと、渡場のいた空間でぼうっとしてしまうのだ。
そんなふうに日々を、ただ捨てている。
渡場が出て行って三週間。やっと、渡場がいないことに納得しかけたある夜のことだった。
キンコン……と、ベルがなった。
体がびくりと震えた。渡場だと思った。
私は玄関に走り出し、ドアを開けようとした。が……思い出した。
渡場は、電話をしないで訪ねてくることはなかった。
あのおかしかった夜だって、一分前だったが電話をくれた。
電話しなかった時は、モジュラージャックが外れていた日だけだったし、その時のベルの鳴らし方は……。
せわしくベルが何度もなった。
これは渡場ではない。
私はそっと、覗き穴から確認した。
工藤だった。
なぜ今頃、工藤が私を訪ねてくるのだろう?
私は頭が混乱しそうだった。
ドアに背をつけて息を止めた。
その時……カチャ、っと音がした。
慌ててドアチェーンを掛けた。
工藤には、かつて私の家の鍵を貸したことがある。返してもらってはいたが、合鍵を作った可能性はある。
勝手に人の家を開けるのは、もう犯罪の領域だ。
工藤のような気の小さい男が何をしようというのだろう?
やがて開いたドアは、ドアチェーンに阻まれた。
出来の悪い合鍵であったことが、鍵を開けるのに時間を要していた。
もしも、もっと精度の高い合鍵であったなら、工藤はこの部屋に押し入っていたかもしれない。
私は、自分の見る目のなさに歯噛みした。
誠実そうに見えた工藤は、人の家の合鍵を勝手に作ってしまうような男だったのだ。
「工藤主任、いったい何事です?」
私はできるだけ冷静に、仕事の声を使った。
かつては、工藤君とか、
「麻衣、開けてくれ。話がある」
「私は、話がありません」
工藤の声は、情けなかった。
「ここじゃあ話せない。開けてくれ」
「じゃあ、話さないでください」
たとえ十ヶ月でも、このような情けない男が好きだったとは、こっちも本当に情けない。
ドアチェーンで辛うじて開かれないドアの向こうで、そわそわしている気配がする。
「俺は、麻衣を選ぶべきだった。やっと、わかった」
「でも、選びませんでしたから」
「あの時、俺はもう婚約していた。だから、もう破棄できないと思って結婚するしかなかった。でも、それは間違いだった。やり直したい」
「今は、結婚生活を続けるしかないんですよ」
「俺は、麻衣が忘れられない……」
すすり泣く昔の男に、ざわっとした。
何だ? コイツは! と思った。
でも、私も工藤に対してストーカーのようなことをした。ばかばかしい夜の嫌がらせ電話を思い出して、自分の人間性を疑ってしまう。
切羽詰った気持ちからなのだろう。
もしも、私が渡場を知らなかったら……あの、孤独の中にいたのなら、このような情けない男でも、喜んで受け入れてしまったかもしれない。逆に、これこそが愛情だと勘違いしたかもしれない。
確かに、私は渡場のおかげで手痛い失恋から立ち直ったのだった。
「忘れてください。あなたが選んだことですから。それに、今となっては当時よりも仕方がないんですよ」
「悪かった。でも、麻衣。俺は別れるから……。妻と別れる。君と一緒になりたい……」
婚約者を捨てられない男に、なぜ、妻が捨てられる? ばかばかしい。
必死に食い下がる工藤の声を、私は白々として聞いていた。
祥子の忠告に感謝したい。
「そんなことは信じません。あなたは、妻とこれから生まれてくる子供を、捨てるようなひどい人ではないことを知っていますから」
子供と聞いて、工藤は明らかに動揺したようだった。
「一度だけでいいから……」
それが本音。そしてあわよくば二度・三度。
工藤の泣き声がしばらく聞こえたが、やがて静かになった。
私はドアにしっかりと鍵を掛け、居間から椅子を持ってきて立てかけた。
念のため、窓にもテーブルを立てかけ、工藤が入ってきたら警察に電話ができるよう、子機を握り締めてベッドに入った。
工藤はそれ以来現れなかったが、怖くて眠れなかった。
一人暮らしの危なさを、その夜ほど実感したことはなかった。
翌日、私は仕事を休み、鍵屋を頼んで鍵を取り替えた。
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