浮気者・3


 今のは……何?

 私は呆然としていた。

 涙も出なかった。


 わかっていたことである。

 渡場は、女から女へと渡り歩く男なのだ。

 落としてしまったら、興味はうせるのだろう。

 誠実でないことは知っていた。初めから知っていた。


 頭がどうもすっきりしない。

 よく考えてみれば、これは喜ばしいことである。

 悪魔憑あくまつきが取れたようなものだ。

 渡場と付き合えて楽しかったことも多かったから、遊びとしてはよかったのだろう。


 あぁ、そうだ。所詮は遊びだった。


 そのようなことを考えて、ちょっと笑ってみた。

 一人で急に笑うのは、ヘンだったかもしれない。



 タクシーに乗るのは面倒だった。

 頭を冷やさなければならないのだ。

 ふらふら歩きながら、何があったのか思い出してみる。

 渡場と理子は、エレベーター一台分ずらして降りてきて、下で待ち合わせして、そして……。


 どうしたのだろう?


 何台か車が私の後ろを追ってきた。誰かが声を掛けてきた。

 うるさかった。

 チカチカしていたネオンも遠くなった。人通りも少なくなった。

 人々がどこに消えたかなんて、どうでもいい。

 それよりも、私には考えなければいけないことが山盛りだった。


 あぁ、そうだ。


 今度こそ、渡場と別れなくちゃいけないんだ。

 今度こそ、渡場と別れることができるんだ。


 これからは、自分の幸せを考えて生きることができる。


 そう思った瞬間に頭がすっきりした。

 気がついたら、私は家に歩いて帰り着いていた。

 



 家には電気がついていた。

 私は鍵を開けた。その音を聞きつけたのだろう、渡場が玄関に駆けつけてきた。


「どこへ行っていた? 今、何時だと思っているんだ?」


 気がつくと、あたりは白々明るくなりかけていた。

 私はかなりの時間をかけて、歩いたに違いなかった。

 かなりふらふらにはなっていたが、渡場は私を酔ってはいないと判断したらしい。


「心配した。電話しても通じないし……」


 そういうと、渡場は私の指を押し開いて、手の中の携帯電話を奪い取った。


「落としたのか? バッテリーがずれているから電源が切れたんだ」


 私は渡場の言葉を聞いてはいなかった。

 ふらふらと浴室に向かっていた。


「おい、麻衣? どうした?」

「うん? シャワー浴びなきゃ……」


 渡場は苛々と私の腕を捕まえて引き寄せた。


「シャワーの前に、俺に言うことがあるだろう? 今まで何をしていた」

「何も……あぁ、直哉にいうことがあった」


 渡場の顔を見ているうちに、私はやっと自分の中でまとまった答えを口にした。


「私たち、別れましょ」

「はぁ?」


 渡場のリアクションは、あまりにも奇妙で、私は笑ってしまった。



 渡場は、私をソファーに座らせた。

 そして、なんとビールを持ってきて、グラスに注いでくれた。


「麻衣、落ち着けよ。まずは飲め。飲んで正気になれ」

「え? 私、やっと正気になったんだよ」


 渡場の反応が何だかおかしい。ビールを飲めなんて。

 私はくすくす笑った。


「何が……おかしい?」

「うん、なんかおかしいんだよ」


 渡場は、私の手を両手で包んで撫でながら、床に膝をついていた。


「麻衣、俺はふられたことがない男だ。だから、麻衣も俺をふらない」


 そう。

 だから、察してあげなくてはいけない。

 私にははっきり見える。悪魔の白い歯が。

 男はいつも悪魔なのだ。

 まるで自分が傷ついたふりをして、言いにくい最後の一言を必ず女に言わせるのだ。

 パッカリと顔が割れ、そこから汚い嘘がいっぱい噴出してくる。

 だから、望んでいる通り言ってやる。

 悲しい哀れな女になって、心無い悪魔に追いすがって懇願するなんて、私は絶対にしてやらない。


 きっちりけじめをつけてあげる。


「直哉が私をふったんだよ? 直哉がもう、他の人を見つけたから、私はすっぱり身を引くんじゃない。私は二股掛けられるのはごめんなの」


 渡場の顔が、奇妙に歪んだ。


「二股……って。妻のことを言っているのなら……」


「うん、妻は私だった。私は妻の代理だった。代理として、妻の代わりに直哉の新しい恋にきりきりするのはごめんだわ」


「何か……勘違いしていないか?」


 渡場の手があまりにも強く私の手を握るので、痛い! と叫んで手を振りほどいた。


「もしかして……理子のこと、言っているのか?」

「うん……全部、見ていた」


 しばらく渡場は無言になった。



「俺は、別にやましいことはない。麻衣を追って出たかったけれど、ちょうど歌が入っていてすぐに出られなかった。その後、杉浦に捕まっていろいろ話をさせられて、麻衣がタクシーで帰ったと聞いて……。それでも早めに帰ろうと思ったところに、理子が追いかけてきて、酔ったから送ってほしいと……」


 渡場の妻が住んでいるところと理子の家は近い。

 渡場の家出を知らないとしたら、理子ならば確かにそういうかも知れない。


 しばしの無言は、言訳にも聞こえる言葉を避けようと選んだとも取れる。

 だが、そこまで私はお人よしではない。渡場の肩を持つつもりもない。


「で……キスもして、車に抱きかかえて乗せて、私の電話には出ないで、どこかいっちゃったんだ。私は、手を振って、いってらっしゃいと見送って、お帰りなさいと、ニコニコ迎えればいいんだね?」


 私はなぜか笑いが止まらなかった。

 それが、渡場を苛々させていた。


「麻衣はもう家に帰っていると思ったから、だから理子を送っていって、それから電話しようと思っただけじゃないか!」

「……で、キスもしちゃうんだ」

「麻衣!」


 渡場の大声に、思わず私の笑い声も途切れた。

 彼は完全に怒っていた。


「もう、いい加減にしろ! その妄想で物を言うのは!」

「妄想じゃない」

「ああ、キスした! 理子が酔っ払ってしてきただけだ! 男は女がくれるものは、はいはい貰うものなんだ!」


 私は凍りついた。

 渡場の本心を聞いてしまった。


「はいはい貰っちゃったんだ」


 渡場の顔が、急妙なぐらいにぐちゃぐちゃに見えた。

 彼は立ち上がって吐き捨てるように怒鳴りだした。


「くれるって物を貰って何が悪いんだ! 男と女には体ってものだって重要な要素だ! やらせてもくれない女なんて、最悪だ!」


 私の中で何かがはじけた。

 私たちは一緒に住みながらも、もう何ヶ月も関係をもっていない。


 急に涙がこみ上げていた。


「そういうことね……」


 渡場ははっとしたらしく、慌てて訂正した。


「俺は、理子とは何もない。送っていっただけだからな」


 抱き寄せようとした手を、私は全身で拒絶して泣き叫んだ。


「わかったわよ! 直哉は、私が望むから抱いたりキスしたり一緒にいたりしてくれるんですものね! はいはいあげたのは私だから。あげなくなったらお払い箱なんだ!」


「麻衣、落ち着いて……」


 伸ばされた手を嫌い、私はソファーから立ち上がると、窓辺まで逃げた。


「よして! 汚い!」


 私は先ほどとは打って変わって興奮し、今度は怒鳴り、泣き狂った。


「欲しいだけ自分は受け取っておいて、直哉には私の欲しいものなんて、何もくれる気はないのよ! 私はただ、まともな恋をして、まともな結婚をして、まともな幸せが欲しいんだから! 直哉といたら、全部ずたずたにされるだけ!」


 今度は、渡場のほうが凍りつく番だった。


「……なんだよ、その……まともっていうのは」


 ソファーを挟んで、わぁわぁと泣く私と、ただ呆然として私を見つめている渡場がいた。


「俺は……まとも、じゃないのか?」


 私は泣くだけで、声が出なかった。ただうなずいていた。


「麻衣、もう一度聞く。俺はまともじゃないと? 俺じゃダメだというのか?」


 うん……とうなづいた。


「本当にこれが最後だ。俺は別れた女を追わない男だ。それを踏まえて返事をしろよ。俺と別れることが、麻衣の望みか?」


「そうよ! 直哉のおかげで私の人生メチャクチャだわ!」


 しばしの沈黙が流れた。

 かすかな渡場のため息が聞こえた。


「わかった、麻衣。幸せになれよ」


 そういうと、渡場は玄関に向かって歩いていった。

 靴を履いている気配がした。


「直哉!」


 私は泣きじゃくりながら渡場を呼び止めた。

 玄関を見てはいなかったが、彼が一瞬動きを止めたことがわかった。


「この部屋の合鍵は置いていって!」


 苛々とした大きなため息が聞こえ、次に激しく閉められたドアの音がした。

 ガシャガシャと鍵の音がしたと思ったら、郵便受けから鍵が投げ込まれていた。


 私は大声をあげて泣いた。

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