浮気者

浮気者・1


 三月の声を聞き、別れ・旅立ちの季節が近づく。

 そのせいか、渡場の帰りが遅くなってきた。

 宴会やテニス、ジムなど、マイペースで自分の生活を送っている。

 それにひきかえ、私のほうは相変わらずの酒絶ちを続け、週三回は地下鉄で帰ってきて一人で買い物をし、自分のお財布で支払いをするようになっていた。

 渡場はお金を渡さない……というのではなく、時々パチンコで勝ったときなどは、渡してくれたりもする。ただ、滅多にはなかった。

 まったく無頓着だからなのだろう。私も言い出しにくい。


 最近、だんだん所帯じみてきて、疲れた顔になってきたような気がする。

 派手な服装を嫌う渡場の好みを気にして、好きなデザインの服も買えないでいる。渡場は、私の好みの服装は『男に媚びているようだ』と言って嫌がるのだ。

 背が低い私には、長いスカートは似合わないのに。せっかくの春なのに、ピンクの綿セーターにもいい顔をしないのだ。『年齢を考えたら?』などと言う。

 三十歳になったって、いや、三十歳だからこそ、春らしい色が似合うのだと思うのだけど。

 まるで、本当に生気を吸い尽くされてゆくみたい。

 春の足音がそこまできているのに、私は秋の気分だった。



 渡場の夜遊びはエスカレートしてきた。

 電話もくれずに帰りが遅くなると、私に怒られると思うのだろう。ただいまも言わずに、まずは抱きしめてキスの嵐。口を利けなくしてしまうのだ。

 次にはテニスの話。そして、カラオケの話。さらに、禁煙を勧められているとか、体力がないのはそのせいだとか……。

 酔い覚めのお茶を入れ、いろいろ話を聞いてあげている間はいいが、眠るころにはため息がでる。


 私は妻の代わりをしている。

 でも、妻ではない。


 この頃から、渡場にはすがるような愛情の飢えは見られなくなり、と同時に私にすがり付いて眠ることもなくなった。

 安心しているのか、それとも愛情が冷めてしまったのか……。

 時に、私のほうが渡場の背中にすがって眠っている。


 私らしくなかった。


 寂しい……とつぶやいても、気がついてもくれない。


 


 その日は電話もなかったので、晩御飯も食べずにじっと時計を見続けていた。

 テレビも見たくはなかった。

 そういえば、渡場と暮らし始める前は、家に帰ると真っ先にテレビをつけたものだ。

 なぜだろう? 寂しいなどと思ったことはなかったけれど、寂しかったのかもしれない。

 別に楽しみにしているドラマもなかったし、見ていたわけでもないのだ。ただ、ビールの友にしていただけ。


 十時を回ると、ふつふつと怒りがわいてきた。

 せめて電話もできないのか! と思い、電話してみる。電源が切られていて、ますます腹が立つ。

 最初のうちは、こまめに電話をくれたのに、すっかり慣れっこになってしまったのだろう。まったく何様のつもりなのだろう。

 しかし、十二時を過ぎると、今度はとても不安になってきた。

 渡場は自信家だ。

 彼は全く泥酔しないタイプで、酒を飲んでも車を運転してしまう。

 それは、自己の限界を知っているという自信と、運転に自信があるからなので、いくらやめて欲しいといっても笑われてしまう。


「俺が事故を起こすはずがないだろ?」


 でも、世の中に絶対はない。

 一時を回ると、いてもたってもいられなくなり、窓にかじりついてしまった。


 万が一……があったなら、どうしよう?

 万が一……があっても、私のところには電話は来ない。


 警察からは、妻のもとに連絡が行くだろう。

 当然、妻は私に連絡をするはずはなく、私はただ、やきもきと待ち続けるだけなのだ。

 そう思うと、渡場の一番身近にいるとわかってはいるが、虚しくて情けなくなる。


 よからぬ夢が襲ってくる。


 何をやっているのか? と、腹を立てている私の知らないところで、とんでもないことがおきているのかもしれないのだ。

 今、こうしている間にも、渡場は冷たい病院のベッドの上で、息絶えようとしているのかもしれない。

 妻がその横で渡場の手を握り、何度も耳元で名を呼んでいるのかもしれない。その横で医者が沈痛な面持ちで「ご臨終」と告げるのだ。


 もしも今日も明日も明後日も、渡場が帰ってこなかったとしたら……。


 あぁ、アイツなんて、所詮はそんな男なんだよ! と、当り散らすことは簡単だ。それが事実だったらその方がいい。

 とんでもないことがおきているくらいなら、渡場がとんでもない男であるほうが、ずっといい。

 私はここで待ち続け、高井あたりから渡場の事故死を聞かされるのだろう。

 その時だって、取り乱さないように気をつけなければならない。だって、私はただの知り合いの一人であって、世の中で一番大事な人であってはいけないのだ。

 美弥や理子と相談して、お香典をいくらにするか決めることになるだろう。そして、葬儀の席で泣く妻と子供の前で、このたびは……などと言うのかもしれない。


 愛さえあれば、何もいらない。

 なんて、どうして言えるのだろう?


 結婚していないということは、そういうことなのだ。

 認められない関係というのは、不安定で足場がもろい。

 恋愛のほうが結婚より自由だなんて、きっとそんなことはない。

 たった紙切れひとつの約束がないだけで、何一つ自由にならない。

 死に際に看取ることもできなければ、思いっきり悲しむことすらできない。最後の別れの時でさえ、不誠実でなければならない。


 このような夜は、不安で不安でたまらない。


「直哉のバカ……。早く帰ってきて」


 私は懇願し、待ち続けるしかなかった。

 二時、やっと渡場は帰ってきた。

 怒っていることを見越して、どうやってご機嫌を伺おうか? などという顔をして部屋に入ってくる。片えくぼを作った軽薄な笑顔を見せながら。

 それはまったくいつもと同じで、私は心からほっとした。

 ほっとしすぎて涙が出てきた。怒ることもできなかった。


「ごめん、職場に電話を忘れて……」


 まったく予想がつかなかったらしく、渡場はかえって動揺した。

 言い訳は途中で途切れてしまい、ただ泣いている私をどうしたらいいのか、困り果てていた。


 悪夢はやっと覚めた。

 渡場が生きていたことだけで充分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る