不平等恋愛

不平等恋愛・1


 初売りのときに振袖を着なくなったのは、何年前からだっただろう?

 美容室で小紋の着物を着付けてもらい、鏡を見てふっとそんなことを考えた。


 三日の朝はゆっくりと渡場と話をする時間もなく、せわしく出かける用意に専念した。

 それに、なんとなく許してしまったにしても、渡場に笑いかけるゆとりなんか、私にはまったくなかったのだ。

 そういった空気に、渡場は敏感だ。

 悪ふざけの一つもなく、着物の入った大きな荷物を車まで運んでくれた。

 職場まで送ってくれたが、車の中でも言葉のひとつもない。新年で休みの会社が多いせいか、雪道なのに道路はすいている。

 止まることのない車に、よどみなく流れる時間。

 お互いがお互いの世界に留まったまま、車は会社の仲通りに着いた。

 美容室の時間が切羽詰っていたので、じゃあ……とだけ声をかけて別れた。



 たんこぶは目立たなくなったものの、結い上げた髪のせいでズキズキする。

 目ざとく見つけた同僚には、正月に酔って転んだことにした。

 普段の行いのせいで、すぐに信じてもらえた。


「だから、今日は胃が痛いの。それに頭痛。だから、おとそはやめておく」


 ストックでこっそり行われる宴会も、閉店後の新年会も、私は体よく断った。


「さすがの白井も年をとったなぁ」


 すでに酔っ払っている上司の笑い声を相手にすることはなく、真面目に働く初売りとなった。



 杉浦が訪ねてきたのは、午後になってからだった。


「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」


 ペコリと頭を下げる様子は、まるで鳩が豆をつつくようにせわしなく、顔を少し赤らめていた。


「馬子にも衣装、そのものだね」

「あはは、地だよ。地がいいのよね、私」


 他の若い子たちが華やかな振袖だから、小紋の私はそれほど目立ってはいないはず、柄も流行ではないオーソドックスな古典柄だった。

 とはいえ、ほめられると悪い気はしない。

 杉浦は、実家から帰ってきたその足だったようだ。

 なにやら、故郷の名産だなどと言って、ホタテの珍味をくれた。


「え? いいよ、悪いよ」

「いいから、いいから。親がたくさん押し付けるんだよ、だから受け取ってよ」


 では、遠慮なく……と貰って、代わりに上お得意様にだけ配る干支の楊枝立てと紅白餅をプレゼントする。会社のものではあるが……。

 杉浦は大げさなくらいに喜んで、私を初詣に誘ってくれた。


「うん……。悪いけれど」

「あ、先約があるんだ」


 またこれだ。私は苦笑してしまう。


「そうじゃなく、着物で長時間の立ち仕事って、腰にくるのよね。だからその後、歩きたくないの」


 北海道神宮の境内は広い。階段もある。杉浦は納得してくれた。

 旅行用のバッグと買い物袋を提げて帰る杉浦の姿を見ていると、本当にいい人なんだよなぁ……と、つくづく思う。

 もしも杉浦のような人と付き合っていたとしたら、たんこぶを作ることはなかっただろう。



 帰る時間を電話した。

 引き止める上司には、杉浦のホタテ珍味を少しおすそ分けすることで、勘弁してもらった。

 一昨日の夜・昨日の今日・今朝の態度で、渡場は私が電話してくるかどうか、内心不安だったのだろう。喜び勇んで迎えに来た。


「ただいま」


 いつものように車に乗りこんだが、渡場の返事はなかった。

 視線がいつもと違う私に釘付けになっている。

 着物を持って出たことは知っていたが、職場内の美容室で着付けたので、私の着物姿を渡場は見ていなかった。


「頭……盛り上がっていない?」


 これがやっと出てきた渡場の一言目だった。

 正直、杉浦にぼーっとした目で見られたあとだったので、がっかりしてしまった。

 それ以降、会話がなくなった。

 渡場は、交差点でウインカーをいつもと違う方向に上げた。

 不思議そうな顔をした私に、彼はさりげなく言った。


「そういえば……初詣くらい行っておくか?」



 三日の夜にもなれば、初詣客の数も減る。

 とはいえ、二人並んで人目の中を歩くのは、結婚している渡場にとって、あまり好ましいことではないはず。

 しかし、渡場はまったく気にしていない。

 神宮の周りを何度も回って、できるだけ境内に近い駐車場に車を入れると、うやうやしく私を車から降ろした。


「あ、ちょっとそこで止まってみて」


 歩き出そうとした私を、渡場は呼び止める。振り返ると、再び。


「今度は横向いて」


 何だかわからないままに、私は渡場の言葉通りに動いた。

 渡場は、うれしそうな顔をして、まるでビデオで写しているかのように視線を私の足元から頭の先までゆっくりと動かした。


「いったい何?」

「いや、何でもない」


 そういうと、渡場はそそくさと私の腕を支え、耳元で転ぶなよ……と、つぶやいた。



 二人で並んで拍手を打ち、同時に賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らした。

 私は十円玉を投げたが、渡場は五百円玉を投げ込んだ。


「直哉が神頼みする人だとは思わなかった」


 私はそういって渡場の腕に手を回した。久しぶりの、私からのアクションだったかもしれない。

 渡場は軽薄そうな笑いを浮かべた。


「神様なんて信じてはいないさ。これは行事だから」

「型にはまった行事なんて、嫌いじゃなかったの?」

「気が向けば、型にはまったことだって楽しいからね」


 そういって渡場はおみくじを買った。私の分も払い、二人で同時に引いた。


「中吉」

「うわ、私は末吉だ」


 しかも「待ち人きたらず」とある。今年は我慢の年になるらしい。


「凶じゃなかったならいいじゃない?」

「ここの神社、凶を入れていないんだよ」


 私はおもむろに嫌な顔をした。

 まさに、このおみくじ通りになりそうな今年を、憂鬱に感じた。

 雪道を滑らないようにゆっくりと歩く。私は心元なくて、何度か渡場にすがった。

 境内を出たところで、渡場は立ち止まり、煙草に火をつけた。

 そして、しょぼくれ気味の私に、やや不機嫌そうに言った。


「俺といる時に、つまらない紙切れ一枚で落ち込まないでほしい。気にしたってどうしようもないことだろ?」


 そう言われて、ブルっと震えた。

 一昨日の夜の渡場を思い出して、一瞬怖くなったのだ。

 いつも軽薄そうな笑顔を見せていて、何も感じていないように見える渡場だが、私の一挙手一投足が彼の不安定な心を揺さぶるのだ。

 渡場の見かけにだまされてはいけない。

 今まで付き合ってきた男のように、自分の気持ちだけで頼りきっては、手痛いしっぺ返しを受けてしまう。

 しかし、渡場は煙草を吸い終わると私の肩に手を回し、何度か軽く肩を叩いてみせた。


「大丈夫。何も心配することはないから。俺は麻衣を幸せにする」



 その夜、渡場が精神的に不安定になることはなかった。

 それどころか、着物姿の私を気に入ったのか、苦しいから早く脱ぎたいというのに、中々許可してくれない。

 しかも最後に、とんでもないことを言い出した。


「麻衣、テレビでよくある、お代官様ごっこをやりたい」

「バカ! 何言っているのよ。あれは、テレビだからああなるの!」


 帯を外しながら、私は真っ赤になって怒った。

 だいたい、この着物の下には花魁のような色っぽさは隠されていなく、体の線を補正するためのタオルやゴムバンドがたくさんで恥ずかしい限りだ。

 しかし、渡場の少年のような好奇心を留めることはできなかった。


「ものはためし」

「ちょ、ちょっと! あ、あれーーーー!」


 思いっきり引かれた帯に私はよろめき、柱に頭をぶつけて転ぶ羽目になった。

 たんこぶはできなかったものの、かなりの痛さでしばらく起き上がれなかった。


「ごめん。大丈夫?」


 渡場は、今回は素直に謝って、慌てて私を助け起こした。

 本当は大丈夫だったが、大いに反省してもらうために、私は重傷を装った。

 右往左往しながらも、いつものごとくの大げさな介抱。

 子供の頃、仮病を使えばよかった……と渡場が言ったことを思い出し、本当にね……と、頭の中でつぶやいて笑った。

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