別れの系譜・5


 ——愛を受けてこなかったものは、愛することができない。


 そんなことない……はず。



 朝、悲しい気持ちで泣きながら、目覚めた。

 ベッドで眠っていたのが信じられなかった。

 頭をぶつけていたせいもあったと思うが、居間の床の上で無理やりねじ伏せられて、何度も悲鳴をあげたあと、意識を失ってしまった。

 体中が痛い。

 よくセックスの体験談にあるような、そういう意識のなくなり方ではなかったと思う。

 なぜなら、全然感じなかったから。

 ただ、苦痛と恐怖しかなくて、意識を手放したかったのだ。

 頭になにやらひんやりと感じるもがあり、手を当てると濡れタオルが乗っていた。


「痛っつ!」


 なんと、おでこにたんこぶができていた。テーブルの足にぶつけたところだ。

 新年早々、ひどい有様だ。明日には引っ込むだろうか?



 渡場は……どこへ行ったのだろう?

 精神状態がおかしくて、殺されても不思議ではなかった。

 昨日を、生きて乗り越えられたことに感謝したい。

 タオルで頭を冷やしてくれるくらいだから、もう落ち着いているのだろう。

 とりあえず、昨日殺されなかったから、今日殺されることはないはす。

 でも、できるだけ早く、別れを切り出したほうがいい。

 そう思ったら、涙が出てきた。

 このようなことが続いたら、本当にいつか殺されてしまう。



 バタンと玄関のドアが開く音がして、私はビクッとした。

 音に驚いたのか、渡場の気配を感じて怖くなったのか、わからなかった。

 体と心がバラバラで、心のほうはいたって冷静のような気がした。

 しばらくガサゴソと音がして、そっとベッドルームの扉が開く。

 体が緊張してドキドキしたが、渡場は近寄ってはこなかった。

 目だけでそっと戸口を見ると、向こうは顔だけを覗かせている。

 まるでいたずらっ子が、親の機嫌を伺っているかのような、そんな姿にぞっとした。

 私のおでこに乗せたタオルがずれたのを見て、渡場は声を掛けてきた。


「あ、起きていた?」


 その声に、甘えたような響きすらあって、昨夜のことを反省している様子は微塵も感じられない。

 私に対して、悪いことをした……などとは、まったく思っていないのだ。

 ずれたタオルを目まで持ってきて涙を拭いた。


「麻衣が寝ている間に、朝ごはんとか……買ってきた。コンビニで。頭、大丈夫? 痛くない?」


 私を看病するときの、甘くて優しい声。

 声が優しいほどに、渡場のすさんだ心が見えるようで、ますます泣けてきた。

 私が何も言わないので、渡場はベッドに近寄ってきた。

 添い寝はしなかったものの、腰を下ろし、私のおでこのタオルをたんこぶの位置に戻した。


「あれ? 麻衣、泣いているの? そんなに痛い?」


 悪びれない声に、怒りさえ覚えた。


「……痛い……」


 本当に心が痛かった。


「テーブルに頭をぶつけるなんて、麻衣はそそっかしいよね」

 


 もう、今度こそ、限界。


 私が頭をぶつけてしまった理由さえ、渡場はとぼけているのだ。

 別れなくちゃ。

 どんなに好きだって、自分を殺してまで、コイツに付き合う必要はない。

 どんなに孤独だったって、コイツと落ちる地獄よりは天国だ。


 私は、涙をこらえてキッと渡場を睨みつけた。

 どこか、何かにおびえたような色が、かすかに彼の目の中に浮かんだが、口元は微笑んだままで、片えくぼと白い歯が見えた。


「……私たち……」


「ダメだよ、口を開いたら」


 渡場は笑ったまま、私の口元に指を当てた。


「麻衣は、頭が痛い。そういう時にあれこれ考えすぎたら、ますます頭が痛くなるし、正しい判断力に欠けたことしか言えない。だから……」


 それでも動こうとした私の口元を、渡場は掌で押さえ込んだ。

 私は驚いて、もごもごと口を動かした。そのとたん、ますます渡場の手に力がこもってくる。

 私は必死になって渡場の手を振りほどこうとした。


 やはり力では敵わない。

 このままでは……。


 渡場は、笑顔のままだった。


「だから、何もいっちゃいけない。おかしなことを言って俺を傷つけたら、麻衣は俺を失ってしまう」


 息ができない。本当に殺される。

 私は必死に渡場の手をつねったり、引っかいたりしたが、渡場は何も感じないようだった。


「わかったね?」


 念を押されて、うんうんとうなずき、やっと手を離してもらった。

 はぁはぁ……と、何度か呼吸を整える。



 怖かった。


 死ぬかと思って怖かったのと、渡場の狂気が。

 渡場は、確かに頭のいい男だ。すべてにおいて非の打ち所のないいい男ぶりを発揮する。

 多くの女性が、表面上の彼によろめくだろう。


 でも。


 渡場を狂わしてしまうほどの、この愛情への飢餓感はいったい何なのだろう?

 こんな愛には、誰もついてはいけない。

 こんなわがまま、愛じゃない。


 身をもって見せ付けられて、私は怖かったのだ。



 この時、渡場に引導を渡せなかったのは、死への恐怖のためだったかも知れない。

 でも、渡場の痛みを感じてしまったのも事実だった。

 自分がかわいそうで泣いていたのに、いつの間にか、渡場がかわいそうで泣いていた。

 なぜ、こんな渡場を愛していると思うのか、自分でもわからない。

 自分でも信じられないことなのだが、私は、結局、渡場をあっけなく許して、別れを切り出さなかった。



 渡場は私に謝ることはなかった。


 だが、この後かなり長い期間にわたって、心の有り様に関係なく、私の体は渡場を自然に拒んだ。

 渡場は、私をただ抱きしめるだけで、無理強いすることはなかった。

 そう、何ヶ月も。

 狭いシングルベッドで寄り添って眠りながら、私たちは愛しあうことがなくなった。

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