蜜月・4


 寝坊した。

 仕事納めに遅刻するのはあまりにも情けない。

 私は急いで歯を磨く。鏡に写った私の後ろで、渡場も一緒に歯を磨く。

 小さな洗面台は、どちらが先に口をすすぐかで、小さな戦争状態になる。

 もちろん、本気で争えば、体格で負ける私が負けるに決まっているのだが、おふざけだから私が勝つ。

 あぁ、すっきり……。

 と、思ったところに、渡場が顔を乗り出して、あっという間に私にキスをするから、とんでもない事態に陥った。

 口移しに歯磨き粉の泡をもらったのでは、いくら私が渡場を愛していたって、堪忍袋の緒が切れる。


「あーん! バカァ! 遅刻するじゃない!」


 渡場は、私を怒らせるのが好きなのだ。

 怒りつつも、こういうときに見せる渡場の笑顔は、軽薄な男の顔ではなくて、むしろいたずらっ子の顔なので、私はやっぱり許してしまう。

 それに、夕べの不安定さが消えていることがうれしかった。



 職場までいつものように送るという渡場を、スキーに行く方向と違うと言って説得するのは大変だった。

 本当は、雪道の車では遅刻確実なのだ。地下鉄のほうは、まだゆとりがある。


「俺、スキー行くのやめるから、麻衣も実家帰るの、やめたら?」


 車を走らせながら、そんな今更な提案をふってくる。

 友人との約束も、家族との決め事も、渡場のわがままの前には、拘束力にはならない。


「それなら、直哉も私の実家に来る?」


 絶対に出来ない提案を、私はいたずらっぽくしてみた。


「そういう形式ばった行事を家でするのは嫌いだ」


 苦々しくつぶやく顔は、おそらく本当に嫌いなのだろう。

 クリスマスは家で過ごすとか、正月は実家に帰るとか、お盆は里に帰るとか。

 嫌なことをしなければならない……ということを、渡場は嫌う。

 そして、本当にしない。

 だから、正月にしぶしぶ家に帰る私を、正直よせばいいのに、と思っているのだ。


「はーい、わかりました。一人で帰りまーす」


 やや重くなりかけた空気に焦って、おちゃらけてみせる。

 すぐに乗ってこなかったので、やや不安になった。が。

 渡場りの片えくぼを作る笑顔は、時々真面目な話題であることに、やっと最近気がつきだした。 


「麻衣、来年の暮れには、一緒に実家に行ってあげられると思うから」


 返事が出来なかった。


「ちゃんと、挨拶できるようにしておくから」

「……うん……」


 私の返事がうれしそうではなかったことに、渡場は気分を害したようだった。


「何だよ、その『うん』って。麻衣は、俺のこと、全然信頼していないからな」

「なにさ、直哉は自信家のくせに、すぐ私のことを疑ってかかるんだから」

「じゃあ、疑われないように素直に喜べばいいだろ」


 私は、すこしうつむいた。


「……喜べない。心配だもの」

「俺は、ちゃんと離婚するって言っているだろ?」

「そうじゃない。うちの頑固親父が……」


そのような会話を交わしているうちに、あっという間に地下鉄駅についてしまった。

 車を止めてからも、渡場は私を引き止めた。


「麻衣、何も心配しなくていいから。俺は、どんな頑固親父だったとしても、気に入られる自信がある」


 私は笑った。

 このような自信過剰のところが、最近は妙にかわいく感じるようになった。


「うん、直哉。よいお年を!」


 絡み付く手を離し、その手を振って私は車を降りた。


「麻衣、携帯に電話するから! 電源入れておけよ」


 窓を開けて、渡場が叫ぶ。

 私は振り返って、何度も手を振った。




 久しぶりに地下鉄に乗って、窓に流れる闇を見ていた。

 暮れとあって、人も朝のわりに少ない。

 渡場の苛立った顔を思い出すと、何かがチクリと胸に突き刺さる。


 本当は、嘘をついた。


 私は、渡場を信じていない。

 彼に、離婚する気があるとは思っていない。

 妻の愛を信じている彼が、そして愛に飢えている彼が、その愛を振り切れるはずがない。

 離婚を口にするのは、私に喜んでもらいたい一心からなのだ。

 ただ、新年を迎えるにあたって、嫌な気持ちで渡場と別れたくなかった。

 渡場にも、私のいないところで悪夢にうなされるような、そんな思いをさせたくはなかった。

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