蜜月・3


 ふと、夜更けに目が覚めると天井がぼんやりと浮かんで見えた。

 渡場は私を抱きしめたまま眠っている。

 来年という年が怖かった。

 このまま、渡場と日々を過ごしたら、本当に自分がなくなってしまうのでは? という不安が、私の胸に広がっていた。

 渡場は、まるで自分が私を守っているとでも思っているのかも知れない。

 でも、私には孤独な子供がすがりついているように思えて仕方がない。


 私も孤独でたまらないから。

 寂しくてたまらないから。

 誰かに愛されたかったから。

 すがりつく手を振り払えない。


 愛しいと思う。

 たとえ自分が消え去っても、孤独からこの人を救って、幸せにしてあげたい。

 でも、怖すぎる。

 だって……この人は、私を食い尽くす悪魔なのだから。

 


 

 そのようなことを考えていた時だった。

 初めは小さく、次に私まで跳ね上がるほど、渡場がびくりと痙攣した。

 私の心臓は、あまりの衝撃で激しく鼓動しはじめた。


「直哉?」


 声を掛けたが、目を覚まさない。

 でも、私を抱きしめる腕は、硬直したかのようにますますきつくなった。

 渡場の息は静かだ。

 静かすぎる……息をしていない?


「直哉? ね! ね、ちょっと! 起きて!」


 私は慌てて腕の中から身を起こし、必死になって渡場をゆすった。


 三回ほど揺すると、渡場ははっと大きな呼吸を一回して飛び起きた。

 私は、安心して涙目になり、渡場を思いっきり抱きしめたかったが、逆に苦しいほど抱きつかれて、あえいでしまった。


「……麻衣……麻衣……」


 恐怖に打ち負かされたような声で、渡場は私にすがった。


「いやだなぁ、もう。驚かせないでよ」


 私はわざと明るい声で、渡場の背中をぽんぽんと叩いた。

 でも、心臓の鼓動は早いままだった。

 渡場が死んだのかと思って、びっくりしてしまったのだ。

 渡場は、やっと手を緩めると、私の顔を覗き込んだ。 

 天井を見ていたせいか闇に目が慣れていて、渡場の不安そうな表情がよくわかった。あの時と同じだった。


「水、飲む?」


 私が立ち上がろうとすると、渡場は私の腕をつかみ、行かないでくれと目で懇願した。

 私は渡場の頬に手をそえ、額にキスして笑った。


「すぐに戻るから」


 そういってベッドルームから台所に向かったが、ねっとりと汗をかいていた渡場の額と頬に、正直動揺していた。

 水とお絞りを持ってベッドルームに戻ろうと振り向くと、目の前に渡場が立っていた。

 小さな電気を一つつけただけの部屋だったので、亡霊のように見えてしまい、私はもう少しで水を落とすところだった。


「うわ! びっくりした! どうしたの?」

「いや……。目が覚めてしまったから」


 一人きりになりたくないから。

 そうに違いない。


「じゃあ、少し起きていようか? 私、ビール飲んでいい?」


 渡場は小さくうなずいた。

 

 

 先ほどの無呼吸が気になっていた。

 渡場は私の心配をよそに、いつも寝酒に飲んでいるウィスキーをグラスに注いでいた。

 私が止めるまもなく、ストレートで飲む。その飲みっぷりが悲しかった。


「夢を見て……うなされていただろ?」

「うん、ちょっとね」


 少しだけ嘘をついた。

 渡場は、うなされることすらなく苦しんでいた。

 私はソファーの渡場の横で、ビールを開けた。

 やや、汗で湿った渡場の頭を、自分の肩の上に引き寄せるようにしてゆっくりと撫でた。


「疲れ、たまっているんじゃないのかなぁ?」

「ああ」


 渡場はなされるがままになっていたが、やがてぽつり、と言った。


「天井の夢を見ていた」

「てんじょう?」


 一瞬、天上なのかと思ったが、どうやらそうではなかった。


「天井が……高くて遠いんだ。でも、俺にのしかかってきて、押しつぶそうとする」

「ヘンな天井。そんな天井ない」



 私は内心焦った。

 私が天井を見ながら不安に感じたことを、渡場はそのテレパシーともいえる勘で察したのかと思った。

 しかし、そうではなかったらしい。


「その天井は……じいさんの家のだ」


 思い出した。

 渡場は、親元を離れて祖父の家に引き取られたと言っていた。たしか、お母さんが出て行ってしまい、その後、新しいお母さんが家に入って、しかも一人ではなく……。

 渡場の意思なのか、親に出されてしまったのか、それとも他に理由があったのか。いずれにしろ、渡場は少年時代を親とは一緒に暮らしていない。

 それが、どこかでトラウマになっているのかもしれない。


「じいさんの家は広くて、大きくて、人がたくさん出入りしていて……俺は。俺はそこにいた」


 ぽつりと渡場が語り出す。


「俺の寝室も大きくて、じいさんは厳しくて……布団は天井の木目にあわせて敷けと言われていて」


「寂しかった?」


 私の一言に、渡場は頭を上げた。

 かすかに自分を取り戻しつつある渡場の、自尊心を傷つけたらしい。


「寂しくなんかなかった。俺は、じいさんの次に偉かった。誰もが俺を大事に扱ったし、ばあさんも俺の言いなりだったし、何でも手に入った……でも」


 渡場は、再びグラスにウィスキーを注ぐ。

 手が震えているので、少しこぼれたが、渡場は気がつかない。


「布団は大きくて、部屋も大きくて、天井も高すぎるんだ」


 再び一気に飲み干そうとする渡場の手を、私は制止した。


「大丈夫。ここは天井低いから」


 渡場が小さくなって寝るわけがわかった気がした。

 私を抱きしめて眠るわけもわかったような気がした。

 渡場はグラスを置き、代わりに私を抱きしめた。


「……一度、怖くて……ばあさんの布団にもぐりこんだ。でも、湿布の臭いがして、悲しくなった」


 人はいろいろな傷を持つというけれど、渡場の傷を私は知らない。

 私は寂しがり屋だったけれど、家庭には恵まれていた。


「大丈夫。私、湿布臭くないから」


 私も渡場を抱きしめた。

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