蜜月・2
三十日の夜だった。
今年最後の、渡場との夜である。
渡場の職場は、すでに年末年始の休みに入っていた。
ところが、私のほうはというと、クリスマスまでの忙しさは脱したものの、新年早々の売り出しの準備などで、残業もあったりした。
渡場が買ってくれた携帯電話は、とても役にたった。
職場に電話しなくてもいい。すれ違いもなくなる。
予定よりも一時間も帰りが遅れてしまったが、電話を入れておいたので、渡場はそれにあわせて迎えに来てくれた。
「そういえば、俺のところの研究員」
車を運転しながら、思い出したように渡場が笑った。
「麻衣からの電話がなくなった……って、すごく気にしていた」
「あら、私の声、憶えられていたんだ」
そういって、ちょっと照れた。
渡場とつきあい始めた時は、ほぼ毎日のように電話をしていた。今から思い出せば、他人にあやしまれてもおかしくはない。
「憶えていたどころか……。麻衣が一度、俺との約束を断ってきただろ? あの時、俺はかなりまいってね、不機嫌だったらしい。だから、麻衣からの電話の取次ぎの時、いつも緊張していたみたいなんだよね」
渡場はニコニコしながら言う。
渡場の微笑みは、やはりどこか軽薄な感じがする。
だから、このような言葉は、『俺がどれだけ麻衣のことを好きなのか?』を知らしめるための、アピールだと思った。一種のかけひきである。
それでも、渡場の電話をやきもきしながら待っていた頃を思い出すと、なんだか救われたような気がしてうれしかった。
渡場の本気が、もっと根深いどろりとしたものであることなんて、私はまだ知らなかった。
私の予定。
明日の夜、つまり三十一日は仕事の後、そのまま実家に帰る。戻りは二日で、三日からは仕事だ。
渡場は、やはり翌日から泊り掛けで高井たちとスキーに行く。戻ってくるのはやはり二日の予定だった。
時間にゆとりはない。準備はこれからだ。
必死に食器を洗っている私の前に、渡場は足を突き出した。
「靴下」
無視をする。
「麻衣、靴下」
再び無視。
しかし、足でお尻をなぞられたりするから、ついに腹を立てた。
「もう! 靴下くらい自分で脱ぎなさい!」
一度、靴下を脱がせてあげたのが失敗だった。
それ以来、渡場は靴下を脱がせてもらえるのがうれしくてたまらないらしい。
どう考えたって、自分で脱いだほうが早いとわかっているはずなのに、私の手をわずらわせたくてたまらないのだ。
反応してしまうと、結局は私の負けなのである。
「靴下」
にっこり微笑まれると、仕方がないから脱がせてあげる。
渡場は、今の忙しい状態ではけしてうれしくはない濃厚なキスを、お礼とばかりに私に返す。
「麻衣は、俺の奴隷」
ぎゅっと抱きしめ、耳元でつぶやく。
確かに、体を許したあとは『奴隷』などと、ふざけて言っていたことがある。
私はひそかに不安を感じていた。
にっちもさっちも行かなくなるところまで、落ちていってしまう不安。
そして……今までの男がそうだったように、渡場も私への興味を失って、暴力を振るったり、思いやりがなくなったり、別の女を選んだりするのか……と思っていた。
だが、渡場は違った。
時にこちらが勘弁してほしいくらい、私を放っておかないのだ。
どうやら渡場りのいう奴隷というのは、絶対に聞いてあげるのはおかしいという要求も、受け入れてくれる……ということらしい。
渡場は、まるで私の愛情を確かめるかのように、こんな些細なわがままを言ってくる。
そして私も……砂漠で飢えた者に水を与えるように、文句を言いつつも渡場のわがままを聞き入れていた。
それがまた、楽しかったのだ。
私たちは、狭苦しいシングルベッドで体を寄せ合って眠っていた。
初めは、渡場の体格ではこのベッドは無理だろう……と思って、布団を敷いていたのだが、彼は私を抱きしめて寝るので、結局は狭くても広くても変わりなかった。
たった数日の別れを惜しむかのように、渡場は私を愛した。
私にとって、渡場が初めての男ではない。今まで通り過ぎた男たちとの間で、セックスの苦痛や快感を教わったり、不安や安らぎを覚えてきたりした。
でも、渡場は、私に底知れない孤独と恐怖を与える初めての男だった。
私はとても孤独だ……と思ってきたけれど、渡場の孤独に触れると震えてしまう。
私のすべてを奪い去って、投げ出して、不安におののいているところで、抱きしめて縛り付けるような……。
私という人間は消え去って、ただ、渡場の所有物だけが残っている。
……助けて……と、悲鳴を上げると、ますます私は渡場のものになっていく。
「俺だけが……麻衣を救ってあげられるから」
渡場の声は、悪魔のようだった。
その声に身をゆだねるのは、地獄に落ちるような恐怖だったが、私は「うん……」と、吐息をもらすしかなかった。
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