正しい家族のあり方・5


 私は慌てて、大急ぎでパジャマの上に部屋着のエプロンドレスをかぶった。さらにハーフ丈のローブを羽織りながら、玄関に走りよる。

 喜び勇んでドアを開けた。

 そして、渡場の顔を見たとたん、驚いて小さな悲鳴を上げてしまった。

 ビリビリとした空気が、渡場を包んでいるように感じたのだ。

 私の反応に、渡場はぎょろりとあたりを伺った。何もないと思ったのか、最後に私を睨んだ。


「何?」


 と、言った声はすこし上ずっている。

 少し肩に積もった雪を払い、渡場は靴を脱いだ。そのしぐさが、奇妙なくらいにせわしない。


 この人は誰? 私、知らない。


 それくらい、たったの五日間で渡場は変わってしまった。

 目つきがギラギラしているうえに、せわしなく動く。


「は……早かったね」


 とりあえず、一言声を掛ける。


「うん、携帯電話を買ったから……」


 そういうと、渡場はなにやら箱を出した。


「これ、プレゼント。麻衣の分の携帯」



 携帯電話は、ものすごい勢いで普及し始めていた。

 ついこの間までは、特別な人しか持てなかったけれど、若い人を中心に持つ人が増えている。

 とはいえ、仕事以外ではまだまだメジャーとは言えず、値段も通話料も高かった。

 渡場の声が割れて聞こえたのは、携帯電話からの電話だったからだ。


 箱を受け取った私に、ありがとうも言わせずに、渡場はツカツカと部屋の中へと上がりこんだ。

 ビールの二缶を片付ける暇もなかったことが、悔やまれた。

 渡場はソファーにどっかりと腰を下ろすと、必死にシャツのポケットを探って、苛々した表情でやがてやめた。煙草を探していたようだが、もうなかったらしい。


「俺も、ビールを飲みたいけど、ある?」


 私のビール飲みを怒る渡場が、いったいどうしたことだろう? 今日の渡場は、なんだか怖い。


「実は、もうないけれど……。私の飲みかけだけど、いい?」

「ああ……」


 私はグラスを出して、渡場に渡した。そして、飲みかけのビールをグラスに注ごうとした。

 グラスがことこと音を立てていた。

 渡場の手が震えているのだ。

 寒いはずはない。この部屋は暖かい。お風呂の湯気が回っているから、ほかほかした温かさだ。


「直哉?」


 私の声に、渡場はびくついた。

 初めて見る渡場だった。何かを恐れているようだった。

 しかし、いきなり彼の口から飛び出したのは、あまりにも意外な言葉だった。


「麻衣、俺は何でもできる男だ」

「はぁ?」


 何だか様子がおかしいので、おかしなことを言い出すとは思っていたが、予想外すぎて奇妙な反応をしてしまった。

 しかし、渡場は私の反応などまったく気にしていない。というか、聞こえてもいなかったのかもしれない。ほとんど独り言だった。


「なんで信じないんだろう? 俺は……麻衣が思っているよりも、ずっとできた人間なのに」


 ないと確認したはずのポケットを、渡場の手は再び探る。煙草が欲しくてたまらないらしい。

 変わりにごくりとビールを飲んで、苦さに顔をしかめた。


「俺は、完璧な夫にも、いい父親にもなれる」


 グラスがカチリと音を立てて置かれた。

 とっさに、嘘だと思った。


 もしかして……。

 私はとんでもないことを渡場に望んだのではないだろうか?

 正しい家族であること。

 私はそう望んだ。

 いや、そのような望みは……私のじゃない。本来、妻の望みだったはず。


「妻は俺を愛している。でも、俺は愛していない。それでも、俺は……麻衣が望むなら、愛しているふりだってできる」


 渡場は、脈絡のない話をぽつりとつぶやいた。

 なんだかへんだ。私は動揺していた。

 この人は誰なんだろう? 私の知っている渡場ではない。

 私の知っている渡場は、自信過剰でいつも人を小ばかにしたような目をしている。このような不安そうな顔を人に見せる人間ではない。

 自分がどれだけ完璧なのか、今さら改めて説明するなんて、あまりにも奇妙すぎる。


 ——誰かが、彼を責めるから? 

 そう望んでいる人が? 私? それとも?


 できることなら、渡場はとっくにやっているだろう。

 妻が愛するよき夫、よき父親、そして誠実な人間に、彼はどうしてもなれないのだ。


 なぜかはわからないけれど。


 私の疑わしそうな表情を読んでしまったのだろう。渡場は、割れそうな勢いでグラスを掴むと、それほど好きではないはずのビールを一気に飲んだ。


「俺は家庭に収まるような小さなくだらない男じゃない。でも、そういう男にだってなれる。だから、いつだって家に帰ればやり直せる。俺がそうしようと思えば、何だってできる」


 渡場の言葉は、なんだか理路整然としているようで、まるで壊れた精密機械のような奇妙さがある。

 私は、呆然と聞いていた。

 その様子が苛立たしいのか、渡場は立ち上がると狭い部屋の中を歩き出した。


「麻衣はそういう男が好きなんだろ? いい夫にも、いい父親にも、俺は……!」


 私は思わず渡場に抱きついていた。

 あまりにもせわしい様子が、もう耐え切れなかった。


「いいよ、もう!」


 抱きついたのは私なのに、なぜか泣いてしがみつかれたような気がした。



 顔をうずめた胸は心地いい。

 激しく打ちつける心臓の音を、止めてしまいたいほどに強く抱く。どんなに不安定な音を響かせようと、やはりここが私の居場所だ。

 渡場のいない日々がどんなに正しいものであっても、私はきっと耐えられない。

 と同時に、私の中にも渡場の居場所があるのだと、はっきりわかった。


 だから、彼はここに来た。


 渡場をずっと、なんだか寂しい人だと思っていた。

 どこかが欠けている人だとも思った。

 愛情に薄い男だとも感じた。

 十月の何もない海辺に立っているような、ひたすら孤独な人なのだ。


「直哉がちゃんと何でもできるってこと、わかる。奥さんの愛情にだって、誠意をもって答えられるし、いい父親にだってなれる。でも……」


 不安げにあたりをさまよっていた渡場の視線が、私という一点に留まった。

 初めてまともに渡場の目を見た気がする。

 渡場のすべてを認めようとした気がする。


「でも……私も直哉を愛しているよ。だから家に戻らないで、ここにいて欲しい」 


 怖かった。

 まるで、一緒に地獄に落ちるような怖さを感じた。


「お願いだから、私のために奥さんと離婚して……」


 涙がぽろぽろわいて出た。



 これは、今まで絶対に言ってはいけない言葉だと思ってきた。

 こんなことを言うと、世間に顔向けできないと思っていた。人に迷惑をかけるとも。

 でも今は、どうしてそう思っていたのかわからなくなってしまった。


 誰のため?

 渡場の妻のため?

 子供のため?

 私のため?


 それとも、いつか現れるかもしれない私の将来の夫のため?


 すべては色あせて消えていった。

 ただ、渡場だけが私の世界にいる。

 求めてすがりつく大切な人を、払いのける手を私は持たない。

 だから、私が悪魔になって渡場の願い事を叶えてあげても、きっと悔いはないと思う。

 一緒に寂しい海を見ていてもいいのだと思う。

 肩を抱き合って砂浜を歩いてもいいのだ。


 太陽が沈む時に、緑の閃光なんて見なくてもいい。

 真実の愛なんてお墨付きなんか、どうでもいい。


 渡場の心臓は、相変わらずせわしない音を立てている。

 でも、肩からは力が抜けていったように感じた。


「え……?」


 意味を計りかねたのだろう。渡場は、かなり遅れて声を上げた。

 まるで張り詰めた糸が切れてしまい、腑抜けたような声だった。

 私は、こらえきれなくなって渡場の胸に顔をうずめて、声を潜めて泣いていた。


 今まで、私は本気で人を愛したことがあるだろうか?

 愛されたいとは思ってきた。

 でも、身を尽くして愛そうと思ったことがあるだろうか?


「愛しているよ、直哉。だから。抱いて……」



 外はどこまでもしんしんと雪——

 たぶん、生まれて初めてこの人を幸せにしてあげたいと思った。

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