正しい家族のあり方・3
その夜は、純粋な職場での一杯だった。
玩具売り場のクリスマス特設会場の手伝いをして、その人たちと帰りに近くの居酒屋で打ち上げしたのである。
疲れも溜まっていたのだと思う。
クリスマス用カクテルと称した限定品のカクテルを、全部飲み比べてみることになり、調子に乗って飲みすぎたのだ。
渡場には、残業と飲み会で最終地下鉄で帰ってくると思う……とは、伝えていた。
でも、結局私は二時帰りで、しかもタクシーで職場の男の人に送ってもらうという失態だった。さらに、アパートの階段を支えられ、何度も腕に寄りかかりながら、上る有様だった。
「それじゃあ、どうも。ありがとう」
と、お礼を言って正気なふりをしていたが、その人が帰ったあと、家の玄関で腰砕けになった。家の鍵すら掛けなかった。
それを、渡場は見ていたらしい。
意識はわりとはっきりしていたが、カクテルで悪酔いして最悪な常態である。
すぐに吐き気をもよおして、渡場が入ってきたときには、トイレで座り込んでいた。
思いっきり吐きたいけれど出てこない。
苦しくて、死にそうだった。
渡場が背中をさすってくれて、やっと吐くことができた。
「大丈夫? 水。それと胃腸薬」
水を飲んだとたんに、再び吐き気。胃腸薬はすべて戻した。
再び用意される水と薬。そして温かい手が、下手をすればそこで倒れてしまいそうな私を支えてくれた。
本当に死ぬのかと思った。
胃液まで吐き、何度か水を飲んでは吐き……を繰り返した。
「直哉、苦しい……」
私は涙目で訴えた。
「大丈夫、水飲んで……」
それじゃあ、今夜はテニスに行く。俺も、仲間と飲んで帰るかな?
などと、渡場は言っていた。
だから、今夜、来てくれるとは思っても見なかった。
彼は、勘がいい……というか、私の大変なときがわかるようだった。
本当に今夜、私一人だったら、死んでしまったかもしれない。
一時間トイレで格闘したあと、やっと楽になった。
渡場は、濡れタオルで口元を拭いてくれ、抱えてベッドまで運んでくれた。
体はだらしなくも力が入らない。私は、くらげのようになって、渡場のなすがままだった。
服のボタンを緩めてもらって、ふっと息をつけた。
彼は、私のウエストを締め付けているスカートも緩め、背に手を回してブラも外してくれた。
生き返った感じがした。
普通、人には見せられないような失態ではある。
でも、気持ちが悪いのが少しよくなったし、ほっとできて気持ちがよかったのだ。
本当に苦しかったのもあるけれど、不思議と渡場に危険を感じなかったからだ。
この奇妙な愛人関係の維持で、おそらく渡場は私に手を出さないと決め付けていたのだと思う。
うるうるしながら見上げると、痛々しそうな渡場の口元が、苦しくないか……と、動いたように見えた。
「う……ん」
私はかすかに声をもらた。
具合が悪いとき、優しくされるとうれしい。渡場の言うとおりだった。
あぁ、私ってやっぱりこの人が好きなんだなぁ……などと思った。
心配そうに覗き込む顔も、優しく髪を撫でる手も、全部好き。
そう思った。
が……。
「麻衣、俺、もう付き合いきれない」
片えくぼを見せることもなく、渡場の歪んだ口元から漏れた言葉。
一瞬、何を言われたのか、わからなくなった。私が想像していた言葉とは、まったく違いすぎたのだ。
「俺は、麻衣が苦しむのを見るのが嫌だ。だから、麻衣がこんな状態を繰り返さないように、何でもしてあげようと思った。辛いことがあったら、全部引き受けてあげたいと思った。でも……もう、限界だ」
——限界? 限界って何だろう?
渡場との日々がくるくると頭に蘇り、私は目が回りそうだった。
その日々が、私は楽しかった。恋愛ごっこのかけひきを、渡場だって楽しんでいたはずだ。それとも楽しくはなかったのだろうか?
でも……片えくぼの微笑みが、いつも軽薄そうだったから……私は。
渡場なんて、何とも思わない男だ、と決め付けていた。
何をしたって、どうせ遊びなのだから、割り切っていることだから……と思っていた。
何も言えなくなった。
「麻衣は……自分がどれだけ危険を呼び寄せているのかなんて、気にもしないんだ」
渡場の手が冷たく感じた。いや、冷たいのは視線だ。
いつも心地のよい渡場のすべてが、私を冷たい氷柱の先で突くかのように。
「あの男……。麻衣を支えて腰に手を回した。気を使うふりをして、髪に触れた。そして……麻衣は酔っていて記憶にないかも知れないけれど、キスをした」
「……?」
それは、渡場の見間違いだ。そんなこと、していない。
していないはず……。
でも、どうしてか確信が持てなかった。
違う……の一言が言えないばかりに、渡場は笑った。いや、笑ったのではなく、呆れたのだ。
彼は、明らかに私を軽蔑してる。
「どうして俺だけじゃだめなんだ? 俺はまるでピエロか? 男と遊んできた女を介抱するだけの、滑稽な男なのか?」
確かに私は、渡場の言葉を額面どおりに受け止めていた。
『麻衣は俺を利用してもいい』
いや、額面どおりに受け止めていたというよりは、どうせ真面目に恋愛しているわけではないから、都合よく扱っていいと思っていた。
渡場だって、適当に私をその気にさせようとして、そんなことを言ったのだ。本当に、私のことを思って言ったわけじゃなくて、それはかけひきというもので……。
だって、渡場は悪い人間だ。
悪いやつだから……。
私ときたら……どうしてなんだろう? ずっと……。
渡場には心がないのだと思っていた。
傷つく人ではないと思い込んでいた。
笑っているのか、怒っているのか?
渡場の表情は、私にはよくわからない。わからなくてなんだか怖い。
私の首に手を回して引き寄せるのも、いつもよりも乱暴だった。
「麻衣は俺のこと、愛しているのか? 俺と一緒に生きていこうって気はないのか? 何とも思ってはくれないのか?」
渡場は、何を言っているんだろう?
結婚しているくせに、何を言っているんだろう?
急に体を起こされて具合が悪い。頭がぐちゃぐちゃに病む。
「私……でも」
いやだ。
渡場に見捨てられたくはない。
ちゃんと気持ちを伝えなければ、渡場は私を捨ててゆく。
でも。
「一緒になんか、生きてはいけない。だって……」
渡場の声が、信じられないくらい冷たく響いた。
「本当の望みを言ってみろよ。すべてを捨てて、俺に一緒になってほしいって」
……そんなこと。
言えない。
妻とか、子供とか、簡単に捨てるなんて。それは間違っている。
それは不毛の愛だと思う。
人間として失格だと思う。
「直哉には……ちゃんと正しく家族を大事に、してほしいよ」
具合が悪かった。
死にそうだ。
だから、真面目な話なんかしないでほしい。
責めたりしないで、ただ、優しくしてほしい。
優しく髪を撫でてほしい。ずっとそばにいてほしい。
こんなにいっぱいの「ほしい」があるのに——
渡場の手は私を離れていった。
吐きそうなくらいに具合が悪いというのに、支えられていた手を失って、私は勢いよくベッドに頭を落とした。なのに、少しも優しく声をかけてはくれない。
「わかった。それが麻衣の望みなら……俺は家に戻る」
視界から渡場の姿が消えた。気配も遠のいた。
やがて玄関のドアが締まる音。そして、鍵が郵便受けから落ちる音が続いた。
しばらくすると——車の走り去る音。
私は渡場を失った。
……涙が止まらなくなった。
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