本気・時々遊び・7
朝起きた時、この間のように渡場は帰ったのだなぁと思っていた。
だから、居間のソファーの上に寝ていた彼を見つけて、私はまず驚いた。
おそらく押入れの中のタオルケットとか、探したりなどしなかったのだろう。
朝日がまぶしいのか、渡場は私のハーフ丈のローブをかぶって、びっくりするくらい縮こまって眠っていた。
十一月の寒さ。
短いローブだけで眠るには辛かっただろう。
死んでいるのではないか? と、心配するほど、寝息が静かだった。
近づいても起きる気配がない。一応、タオルケットを出して掛けてあげたがびくりともしない。
まるで、子宮の中で眠る胎児のような格好で、母性本能がくすぐられた。
大柄とまではいわないがそれなりに体格のいい渡場なのに、本当に小さく見えて、愛しかった。
今日は早番。
私は渡場が寝ているうちにシャワーを浴びた。
普段は脱衣所を開けっ放しにして、湿気がこもらないようにするのだが、さすがに閉めきった。
なんだか、自分の家ではないような感じがする。
シャワールームには、もんもんと湯気が篭ってあたりが白い。いつもより暑い。
たったひとつ、別の存在があるだけで、日常が非日常に変わってしまう。
でも、違和感はなかった。
渡場が眠っていたら、そのまま鍵を置いて家を出よう……などと思った。
ところが、シャワールームの扉を開けたら、渡場は寝ぼけ顔でそこに立っていた。
つい、見つめあってしまう。
髪が寝癖で逆立っていて、かわいい。
渡場も私を見て、なにやら思ったらしい。
シャワーを浴びたばかりの私は、濡れた髪にすっぴんの顔、しかも頬が桃色になっていた。
実は、私は化粧を落としてしまうと童顔だった。
「おはよ、気分は?」
そう言う渡場のほうが、寝不足でむくんだ顔をしている。
彼は、本当に私が腹痛で苦しんでいたと思っているらしい。かなりの間、私が夜中に苦しむのでは? と思って起きていたのだろう。
「あ、大丈夫。シャワー浴びる?」
なんだか、本当に申し訳ない気持ちになってきた。
渡場は、私の頭越しに洗面台のやや曇った鏡に自分の姿を映して、顔をしかめた。
「借りる」
渡場がシャワーを浴びている間に、私はそそくさと朝食の用意をした。
とはいっても、本当は困っていた。
私の朝食は、いつもトースト一枚とカフェオレかカップスープの、実に簡単お粗末なものだった。
これじゃあ、渡場には不十分だろう。
たった一個しかない玉子で目玉焼きをつくり、レタスを添えた。
いかにも間に合わせだった。
渡場が出てきた。
上半身は裸のままで、髪を拭き拭き現れた。
ドキッとした。
三十三歳とは思えない引き締まった体をしている。
痩せすぎても太りすぎてもいない。彫刻のようにバランスのよい体だった。
よく抱きしめたり抱きしめられたりで、弾力性のある胸も、堅い腕、無駄のないウエストも、私はよく知っていた。
でも、初めて見た。
このような形をしていたのだ、と見惚れてしまう。
「ご飯食べる時間、ある? ちょっとだけ用意したけれど」
「あ、時間? 麻衣に合わせて出る。今日は、授業ないし……」
だるそうに首を回しながら、渡場は返事をした。
あぁ、恥ずかしい朝食だなぁ……と、思う。
でも、渡場はパクパクと美味しそうに食べ、ちょっとだけ首をかしげた。
「麻衣の目玉焼きは?」
「あ、私? いいの、食べないから」
「もしかして……まだ、おなか痛いの? なら、カフェオレは飲まないほうがいい」
「いや、全然。平気、平気」
本当に本当に、渡場は疑いもなく私の腹痛を信じ切っている。
そこまで素直に信じられると、罪悪感を感じてしまう。
「じゃあ、目玉焼きも半分。あとで念のため、正露丸を飲んでおいたほうがいいよ」
渡場はそう言って、きれいに半分わけした目玉焼きを私にくれた。
地下鉄のほうが会社には早く着く。
送ってくれるのはうれしいが、私は二十分早く家を出ることになる。
渡場が着替えている間に、必死で化粧にいそしんだ。
いつの間にか、渡場が面白そうに私の顔を覗き込んでいた。
「な、なによ」
「いや、化けてゆくのが面白いなぁ……と思って」
「緊張するから見ないで」
渡場は笑った。
「麻衣は化粧するとすごい美人だと思う。でも、素顔もかわいくて、俺は好きだ」
「あ……」
思わず照れたせいで力が入り、ファンデーションが砕けてしまった。
おそらく、昨日の渡場の一撃で床にポーチが転がったときに、ヒビが入ったのだろうけれど。
たった昨日の夜のことなのに。
危なさはどこにもなく、むしろ癒されるような朝を迎えている。
砕けた茶碗は、夜のうちに渡場が始末したのだろう。
ファンデーションは、お昼休みに買いに行けばいい。
車の中で、煙草を吸いながら渡場は言った。
「朝食ありがとう」
「ありがとうって言われるほどのものじゃない」
嫌味にさえ聞こえて、私はむすっとした。
しかし、渡場は大真面目だった。
「俺、久しぶりにコンビニ以外の朝食を食べた。内容じゃないよ。気分の問題」
思い出した。
渡場は結婚してはいるけれど、家族で食事を取っていないのだった。
そのほうが自由でいいのだと、彼は言っていた気がする。
なのに、どうしてこんな朝食にうれしそうな顔をするのだろう?
「麻衣が望むなら、俺、麻衣と暮らしてもいい。今日のような朝が、毎日だといいと思わないか?」
いきなり渡場が言い出した。
あまりに突然で、しかもとても承諾しかねる話だ。
確かに、とてもいい朝だったとは思うけれど、それは結婚した人とすごす朝であり、妻子もちと過ごす朝ではない。
「何、バカなことを言っているのよ! 今回は特別! 次回はなし!」
渡場は笑った。
ただ、この笑顔が苦笑なのか冗談なのか、私には判断がつかない。
渡場は、私の職場につくまでの四十分間に、四本の煙草に火をつけた。
彼としては多いほうである。思えば、我が家には灰皿がなかった。
渡場と私の、体を許さない愛人関係とでもいうのか、友情とはいい切れない奇妙な関係は、まだ続く。
でも、私の世界という孤独の中に、確実に渡場は居場所を作りつつあった。
その日、私は渡場のために灰皿を買った。
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