本気・時々遊び・6


 胸を愛撫されて感じてしまい、思わずかすかに声を上げてしまった。

 渡場がその声に反応して、ますます強く抱きしめてくる。

 彼も抑えきれないところまでいってしまったのだろう。私の体が床から浮いた。

 体格の差を感じた。

 強く抱きしめられただけで、つま先がかすかに床につくくらいまで持ち上がってしまう。

 そのまま抱き上げられて、よろよろとソファーに倒れこんだ。ソファーにおいてあったバッグが頭にぶつかって、痛っ! と声をあげていた。

 渡場は邪魔臭そうに私のバッグを払いのけた。床に落ちて、中から化粧ポーチが転がり出てきた。


 このままだと、一線を越えてしまう。

 どうしよう? どうしよう?


 頭の中でぐるぐる回るけれど、拒否しきれない。愛撫に体が反応してしまう。

 胸はもうあらわにされて渡場の唇を感じているし、スカートの中、太ももを這い上がってくる指先も拒めない。

 男がここまで来て、言葉だけの拒絶でやめてくれるとは思えない。

 それに、もしも指先があそこまで達したら、私がどれくらい感じてしまっているか、はっきりわかってしまうだろう。

 そうなったら……おしまいだ。

 胸を攻めていた渡場の唇が、ゆっくりと下方に下りてゆく。

 おへその辺りに熱い吐息を感じたとたん、私は一気に正気に返った。


 いきなり体を回転させて、ソファーの上から転げ落ちた。

 絶対に逃れられないと思っていたのは、私の思い込みだった。


「麻衣?」


 突然の全身全霊を掛けた拒絶に、渡場は驚いたようだった。

 それとも、ただ、狭いソファーから転げ落ちたのかと思ったのか、手を差し出して私を起こそうとした。

 その手を払って、私は逃げ出した。

 唯一、おそらく追ってこられないと思われる場所へ。

 私はトイレに駆け込むと、中から鍵を掛けた。


 何度も息を整えた。

 みだらな欲望の痕跡をビデですっきり洗い流したが、渡場を求めてたまらなかった体は、まだ震えていた。

 ファスナーが半分開かれたスカートを調え、ブラウスを押し込む。

 ふと、指先に触れた場所は、性感とは違う別な感じで、私を一瞬のけぞらせる


 ふぅ……と大きな息をもらした。


 私のおなかには、十五センチにわたる傷がある。

 おへその下わずかなところに、まるでもうひとつのおへそのような引きつった痕があり、その下、赤黒く変色した傷が、ところどころ盛り上がりながら、恥毛の中まで続いていた。

 巨大なミミズが張りついたような醜さだった。


 絶対に見られたくはない。

 拒絶は、その一心からだった。


「麻衣? どうした?」


 渡場の声が響く。

 彼にしてみれば、突然のおあずけはまったく腑に落ちないにちがいない。


「何でもない。ちょっと、おなかが痛くなっただけ!」


 私は慌てて嘘をついた。

 もっとうまい嘘をつけばよかったのだけど、思い当たらなかった。

 あれだけその気になってしまっておいて、今更、下手な拒絶の言葉を吐いたところで、嘘つきと罵られるだけだろう。下手をしたら、火に油を注ぐように、ますます彼の征服欲を刺激してしまうかもしれない。

 おなかの調子が悪くなったとでもいえば、彼も納得するだろうと考えたのだ。


「大丈夫? 食べたものにあたった? 病院行く?」


 にわかに、先日と同じ展開になりつつあり、私は焦った。


「そこまでひどくない。悪いけれど、今日は帰ってくれる?」

「体調悪い人を置いて帰れないよ」

「そこまで悪くないから……」



 渡場がこのまま帰らなかったら?

 私は朝までトイレに篭っていなければなるまい。

 しかし、あたりはシーンとしていて、人の気配はなくなった。

 玄関のドアが開いた気配もないので、渡場が帰ったのか、まだいるのかもわからない。

 私は恐る恐る扉を開けて、あたりを見回した。


 いない。

 ほっとしたような……。


 渡場は、私の拒絶をどう思っただろう?

 昔、飲み屋で気があった男の子の、突然の豹変に恐れをなして拒否して逃げたときみたいに泣き付くのだろうか?


「ぎりぎりここまで来て、それはないだろう?」

 とか。


 それとも、大人でいろいろ相談に乗ってくれていた人が、実はスケベ親父だったときみたいに、散々私を罵倒するのだろうか?


「いい年して、今更カマトトぶるのか?」

 とか。


 いや、チークダンスを断っただけなのに、怒り出す売り場のセクハラ先輩みたいに。


「お前と付き合うぐらいなら、金を払って女を買う」

 とか。


 相手を拒絶すると、私はいつも手痛い言葉のしっぺ返しを受けて、情けない人間にされてしまうのだ。



 ビールでも飲んで寝ようと思い、居間に戻って驚いた。

 渡場はそこにいた。

 帰ってはいなかったのだ。

 それどころか、先日で薬箱の場所を覚えていたのだろう、テーブルの上には水、胃腸薬と正露丸、鎮痛剤まで用意されていた。ビールを入れていたコンビニの袋には新聞紙が何枚か入れられてある。


「一息つけた? じゃあ、薬飲んで」


 今更、嘘だとも言えず、臭い胃腸薬とさらに臭い正露丸を飲む羽目になった。

 うっかりしていた。

 渡場は自信過剰である。

 自分が拒絶されたなどとは、夢にも思わない男なのである。

 他の嘘は何でも見抜くくせに、私の腹痛だけは120%信じきったらしい。


「吐きそうだったら、この袋に。無理してトイレまで我慢しなくても大丈夫。背中さすって欲しかったら、そうするから」


 ベッドに私を寝かせつけ、この間のようにすっぽりと布団をかぶせる。

 添い寝をして、髪やおでこを撫でるものの、さっきの欲情はどこへやら……である。

 気持ちの悪いくらいの優しさに、私は半分呆れてしまう。


「なんで? なんでそんなに優しくしてくれるの?」

「具合が悪いときに優しくされるのって、気持ちがいいでしょ?」


 小さな頃を思い出す。よく、熱を出して母に看病された。

 あの頃は、それが当たり前だったが、今はそんな看病を受けるとちょっと奇妙に感じてしまう。


「俺は小さな頃からあまり体をこわさなかったから、熱が出るとうれしかった」


 渡場の手の感触が気持ちいい。


「……あ、仮病とか使っていたんだ……」


 酒と薬で朦朧としながら、私は笑った。


「使えばよかった……と後悔したよ。母さんが出て行ったときにはね」

「……え?」


 渡場は、さらりと言った。


「母は、俺が小さな時に家出した。その後、二人の義理の母ができたけれど……。小学五年の時からかな? おじいさんの家に引き取られた」


 初めて聞いた渡場のこと。

 あまりに私とは違いすぎて、変な顔をしたと思う。

 渡場はそれでも微笑んで、私の額にキスをした。


「いいから、眠って。ずっとそばにいてあげるから」

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