本気・時々遊び・5
「ちょ、ちょっと! 勝手に何よ」
私は本当に怖くなってきた。
もしも乱暴されたら、渡場の体格だ。昔の暴力男よりもひどい目にあうかもしれない。
しかし、渡場の声は先ほどよりも落ち着いていて、いつもの優しい声に戻っていた。
「麻衣とゆっくり話したいだけだ。外は寒いだろ?」
確かにコンビニからの数分の道のりで、私はすっかり冷え切っていた。
「わかった……。お茶くらい入れるよ。でも、話が終わったら帰ってちょうだいよ」
少しだけ安心して、渡場を部屋に入れた。
私はいつものようにソファーの上にバッグを置いた。
渡場はソファーに腰を下ろした。が、そのとたん、バッグの頭から顔を出しているコンビニの袋を引き出した。
「あ、ちょっと! 何するのよ! 人のバッグ」
お湯が沸くまで、と振り返ったときには、ビールがテーブルの上に置かれていた。
「ビールが飲みたくなったら、電話くれるんじゃなかったの?」
それは、渡場の一方的な押し付けである。
「別に……ビールなんて飲みたかったわけじゃない」
「職場の飲み会だったの?」
「……」
「誰と飲んでいたの?」
「……誰だっていいじゃない」
「杉浦とだったら困る」
図星を指されて私は息がつまった。
渡場は、その反応で確信したらしい。
「麻衣は俺が好きなのに、何で杉浦に付き合うわけ?」
「……」
「そんなに男という男を惑わせたいわけ?」
「! ひどい! そんな……私、別に」
まるで遊び人のふらふら女みたいに言われて、私は悲しくなってしまった。
男はどうして私を遊びなれた女みたいに言って、そう扱うのだろう?
渡場なんか嫌いだ。男なんか、いやらしい。
絶対、そんな目で私を見下す悪魔なんかに、心も体も許さない。
ヤカンが沸騰して音を立てていた。
私は半分涙をこらえていて、立ち尽くしていた。
渡場は立ち上がると、苛立った表情で私の後ろにあるガスコンロの火を止めた。
「麻衣は酔っ払っている」
「酔ってなんかいない」
渡場には、何の隠し事もできないのだろうか? 確かに少し酔っていた。
しばらくの沈黙。
ぐつぐつと余熱でヤカンがまだ音を立てている。
「俺は麻衣が望んでいることは、何でも叶えることができる男だ。だから、他の男と付き合う必要はない」
渡場の手が、私の首に掛かった。
それは、いつもの彼が私を引き寄せるときの癖でもあるが、今回は怖くててびくりと震えてしまった。
「だから、何もそんな……」
「やましいことがなければ、タクシーをUターンさせないだろ?」
見られていた。
「それは……急にビールが飲みたくなって……」
はっとした。
いいわけを間違ってしまった。
渡場の目は、私の嘘を見抜いている。
まったくいつもの軽薄さを感じない瞳。腕の力が強い。
私の細い首は、渡場が片手でひねったら、すぐに折れてしまうだろう。
渡場の本気は私の本気なんかよりも、ずっと迫力があった。
本当に殺されるか? と思ってしまった。
慌てて手を振りほどこうと、渡場の指先に指を掛ける。
「や、やめてよ。だいたい、直哉は結婚しているんだから! 私とは、ほどほどに楽しむのが直哉の望みでしょ……」
そう言って、じわりと心が冷たくなった。
どんなに恋人ごっこをしたところで、どれだけ居心地がよくたって、耳心地よい言葉を聞かされたって……。
渡場には妻子がいる。本気であっても、遊びなのだ。
私の居場所なんて、どこにもない。
一線さえ越えなければ、居場所を作っていいなんて、はっきりいって自分へのいいわけにすぎない。
ただ、渡場とのつきあいを正当化したいだけだ。
手はほどけることはなかった。
それどころか、渡場は身を入れ替えると体を預けてきた。
反動で私の体はくるりと回転し、よろめいて壁に当たった。そこに渡場の体がのしかかってきた。肩を抱かれて、体がぴたりと密着した。
ヤカンをひっくり返すことは免れたが、お茶を入れようとして出した茶碗が一個、今の勢いで私の手に引っかかって落ち、床で割れた。
その茶碗を無視したまま、渡場は耳元でささやいた。
「俺は麻衣と結婚する。麻衣が望むなら」
ドラマの見すぎだろうか?
一瞬耳を疑った。
三十年間聞きたかった言葉だけど、このようなあからさまな嘘を言われたら、さすがに傷つく。
「俺は、離婚する。そして麻衣と結婚する」
愛人が涙を流して喜ぶ言葉だが、そのあとは地獄。ねぇ、いつ別れてくれるのよぉ……となるのが常だ。
「よしてよ! そんな言葉、聞きたくない!」
「なぜ、俺を信じない?」
「信じられるわけ、ないじゃない!」
渡場に抱きしめられたまま、私は壁伝いにじりじりと逃げ、居間と台所の仕切りの柱に押しつけられ、あとがなくなった。
「麻衣が一番望んでいる言葉だったはずだ」
「嘘の言葉なんか、望んでいない!」
杉浦に言われた言葉は、たぶん真実だっただろう。
でも、ちっともうれしくもなんともなかった。
渡場は、その場限りの大嘘だ。
なのにどうして、渡場の言葉は私をよろめかしてしまうのだろう?
私の弱い部分が、嘘でもうれしい……などと思ってしまう。
「俺は必ず離婚する。妻も子供も愛していない。愛しているのは麻衣だけだ」
「やめて……」
「なぜ? 嘘つきは麻衣のほうだ。望んでいるくせに」
嘘が耳元で何度も囁かれて、私はくらりとした。
全身で体の自由を奪われていた。男と女では、やはり力に差がありすぎる。本気で押さえ込まれれば、抵抗はまったくの無駄になってしまう。
だけど、もう渡場を非難することもできない。唇がふさがれている。
罵倒の言葉すべてを、舌先で絡みとられてしまうような、濃厚なキスを味わっている。
私は必死に頭を振って拒絶した。
「い……や」
「いやじゃない。素直になれ。麻衣は俺に抱かれたい」
片手でがっちりと押さえ込まれて、身動きができなかった。
もう片方の手が、ブラウスの裾をスカートから引きずりだしていても、やめさせることができない。
渡場の手が直に私の腰に触れている。
渡場の言うとおりなのだ。私はずっと抱かれたかった。
手がそっとブラのホックを外して、そのまま胸にまわされても拒絶できないでいる。
でも、いや……なのは、嘘じゃなかった。
あまりにも簡単に、妻も子も捨てる・愛していない……と言い切ってしまう渡場の非情さが嫌だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます