本気・時々遊び
本気・時々遊び・1
手帳を開くと、花丸印が急増している。
というか、花丸のない日を探すほうが難しい。
早番・遅番を問わず、渡場は私の仕事が終わるのを待っていてくれる。
デパートの前の一方通行の仲通りは、仕事帰りのデパートガールを迎えにくる車で埋まっているのだが、渡場の車もその中の一台となっていた。
活字好きの渡場は、時に本を読んでいたり、雑誌を読んでいたり、時に漫画を読んでいたりして、待ちくたびれている様子はなかった。
私ももう慣れたもので、勝手に助手席のドアを開け、乗り込んでしまう。
「お待たせ」
と、声をかけると、ああ……という感じで、待つことを苦にしていないようだった。今までの男のように、必死で待っている感じはしない。
盗まれたビールのもとはもうしっかり取っていたが、私も渡場もそのようなことは忘れていた。
デートはいろいろだった。
時にはいかにも高そうなレストランに行くこともあったし、小さな焼き鳥屋で食事することもあった。
夜景を見ながら車の中で語り合うこともあったが、キスをすることはあってもそれ以上はなかった。あれ以来、私の家に上がることもなかった。
下心以外のなにものもないはずの渡場にして、約束を守ってくれていることはやや拍子抜けするくらいだが、私にとっては都合がよかった。
キスされるたび、すべてを忘れて抱かれてしまいたい……という欲求が、むくむくと頭を上げるのは、事実である。処女ではない。男に抱かれることを、体がすでに知っている。強いほうではないとは思うけれど、性欲だってそれなりにある。
でも、渡場の、やっと慣れてきた隣にいるだけでよかった。
煙草を煙たそうに眉をひそめて吸う顔や、いかにも上っ面だけの褒め言葉も気にならなくなった。片えくぼを引っ張ってみたい衝動は相変わらずあるのだが、存在しないような薄っぺらさは感じなくなった。
触れ合うことが好きなのだろう。渡場は、よく肩に手を回したり、腰に手を回したり、頬や額にキスしたりする。それがだんだんと自然に感じられるようになって、安らげてくるのだ。
まさに、失恋の傷は癒しあえるだろう……という、渡場の言葉通りだった。
二人っきりでカラオケにも行った。
渡場の甘い歌声を一人占めできるのは、心地がいい。
やけくそになって負けずに歌を入れてはみるものの、やはり音痴だし歌える曲が少なすぎる。三度に二度は、渡場の歌だ。
「麻衣は、この間、歌わなくて正解」
「何ですってぇ!」
「だって、あまりにもひどすぎだ」
あんなにリクエストしたのは、渡場のほうだったのに。
むくれると、渡場は私を引き寄せて、ラブソングを歌いだした。
どうやら首に腕を回して引き寄せるのは渡場の癖らしく、私はまるで彼の所有物みたいに、ぴたっと胸に倒れこんでしまう。
カラオケボックスは、いわば密室。
扉にはガラスの窓がついているものの、寄り添いあおうが抱き合おうが、人目はとりあえず避けられている。
渡場の胸は弾力があって、とても居心地がよかった。
歌声にビブラートが掛かると、かすかに振動が伝わってきて、なぜかほっとする。
そこが私の居場所。そんな気がした。
腰に手を回してぎゅっと抱きしめると、贅肉のなさに驚かされてしまう。
人に後ろ指差されるような関係を持ってしまったら、こんな恋愛は続かなくなってしまうだろう。
わきまえているからこそ、そこに私の居場所を作ってもいいのだ。
歌い終わると、渡場は私の頭をくちゃくちゃと撫でて、腕をほどく。そして、ポケットから煙草を取り出した。
歌好きなのに、五曲も歌えば煙草をすいたくなるらしい。顔をしかめながらも、ライターで火をつける。雰囲気が、青春ドラマからハードボイルドに変わる瞬間。横顔も、またカッコいいと思ってしまう。
「俺は忍耐強いよなぁ……」
煙草を吸いながら、ふっともらした渡場の言葉を耳にして、優越感を感じてしまうのは、私のずるいところかもしれない。
「私って残酷?」
頭をかしげて聞くと、渡場は微笑んだ。
「あぁ、残酷。目の前に餌をぶら下げられているみたい」
ふっと近づく唇に、私は甘いキスを期待する。が、突然、煙を吹き付けられた。
「きゃー! ひ、ひどい!」
煙草の煙にむせてゴホゴホ咳きこむと、渡場は満足そうだった。
「でも、俺は紳士だから。麻衣がその気になるまで、じっと待つ」
「なるわけないじゃない! ばか! その前に私が肺癌になったらどうしてくれるのよ!」
涙目で訴えると、渡場は私の頭をくちゃくちゃと撫でた。
「大丈夫。癌になる前に、俺にすべてを捧げたくなるから」
「何でよ!」
「俺、いい男だから」
「……」
相変わらずのうぬぼれ。
でも、私もそれを助長させてしまったかもしれない。この間から、彼を『直哉』と呼び捨てにしていたから。
「それまで俺は、すべてを甘んじて受ける」
「それまでって、その後は?」
「麻衣は俺の奴隷」
「ばか!」
とはいえ、本当にそう思う。
すべてを渡場に許したら、私はたんなる奴隷に成り下がる。
不倫の愛に苦しむような、ドラマのような女にはなりたくは無い。
それに。
結婚という名の幸せを私は信じていた。
やはり男が一番愛している人は、誓った相手の妻であってほしいと思う。
一時の熱愛が冷めたならば、たとえ妻であっても切って捨て、次の女に愛を語る。それが、渡場という男なのだ。
妻と愛人の板ばさみに苦しむ……という、人間ドラマではありえない。
もっと最悪なのである。
カラオケボックスで語った過去の女のことを、もう渡場は忘れている。
「俺は人生を掛けて精神誠意彼女を愛していたのに」
と言った渡場の誠心誠意は、あっけなく消えた。
ニコニコ私にキスをしながら、平気な顔でこのようなことを言うのだ。
「え? 誰? 俺が愛しているのは、麻衣だけ」
それを聞いて、素直に喜ぶ女がいるだろうか?
私への愛も次の女の前にすぐ消える。そう言われているようなものだ。
もっとも、この『誠心誠意愛した彼女』は、あの時、私の気を引こうとしての作り話なのかもしれない。
失恋して心が痛かった私は、案の定腹を立て、良くも悪くも渡場という男を心に刻んでしまうことになったのだから。
何でも簡単に捨て去れる渡場の性格。
人の心を踏みにじっても気にしない非情さ。
あまりにも家庭を振りかえることのない渡場の態度。
だから、いくら好きでもやはりほどほどにつきあわなければ、妻子だけではなく、私も手痛い傷を受けることになる。
渡場が愛を口にするたびに、逆に私の気持ちが冷めてゆくなんて、彼は少しもわかってはいないだろう。
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