遊び・時々本気・3

 

 朝方近く。

 やっと電話を切ることができた。

 もう……いやだ。

 私は電話のコード伝いによろよろ歩き、壁に当たったところで、モジュラージャックを引き抜いた。


 玲子は普通のOLだ。

 私よりも出勤時間は早いはず。でも、きっと今日は休んだことだろう。

 私も休んだ。

 気持ちが不安定だったせいか、生理が十日も早くきてしまい、具合が悪くて起きれなかったのだ。


 子宮筋腫がなくなったら、このような苦しみからおさらばできると思っていたのに、まったく期待はずれだった。精神的にまいっているときは、必ずといっていいほど肉体的にも苦しい状態に陥る。

 しかも顔ははれているし、寝不足だし、二日酔いだときている。

 せっかく飲んだ痛み止めは、二日酔いの吐き気で戻してしまい、最悪だった。

 下っ腹を抱えてうーん、うーんとうなっては、胸元が苦しくて、はぁはぁと息をつく。

 死ぬことはないとはわかっていても、死にそうな苦しみには違いない。

 このときばかりは、女に生まれなかったらよかった……と思ってしまう。



「結婚しないとどうなると思う? 具合が悪くなって倒れても、誰も気がつかないかもしれないんだぞ? 若い頃、人気あったあの女優、覚えているか? なぁ、母さん、かわいそうだったよなぁ? あれ、一人でベッドの中で冷たくなっていたんだったよな?」


 突然、父に話をふられた母は、ただ黙々と食器を洗い続けるだけで、背中が居心地悪そうに見えた。


「うるさい! 私は一人で生きていけるんだから!」


 私が怒鳴ると、父も怒鳴り返す。


「バカ! 人間というものはなぁ、相手がいてはじめて一人前といえるんだ! 自分ひとりで生きていけるだなんて、おごるのもいい加減にしろ!」


 そんなやりとりを思い出してしまった。



 一人暮らしを決めたのは二十五歳のときだ。

 あまりに古くてうるさい父親と気が合わなくて、家出に近い状態だった。

 喧嘩という喧嘩ではないし、家庭の事情というには、少し深刻さには欠けるが、私にとっては充分な理由だった。

 実家に帰ることも少ない。

 帰れば、必ず父は結婚の話題を振ってくる。


 あの頃は、今より少しばかり強かったのだと思う。

 男の人に優しくされることを知って、私はとても弱くなったのだと思う。


 一人になって気がつくと、もう将来に夢を持てない自分がいる。

 何かになりたいというものもない。自分の今を守るのに必死だ。

 ただ、年を重ねて色褪せてゆくだけ。

 何もかもが、少しずつ失われていって、たった一人で投げ出されるよう。


 誰かにそばにいて欲しい。

 こんな寂しい人生なんて、望んでいるわけじゃない。


「お父さんは古いよ。今はね、女だってキャリアを積んで、ちゃんとひとりでやってゆける世の中なんだから!」


「おまえにはまだ、世の中ってものがわかっていないんだ。そんな甘いものじゃない!」


 お父さんのバカ!


 そんなの充分にわかっている。身にしみて感じている。

 だって、私、もうすぐ三十歳だ。もう大人だ。

 たった一人で生きてゆけるような、そんな強い私じゃない。

 自分の限界なんて、充分すぎるほど見えている。

 お父さんが知っている、成長過程でこれから花咲く私じゃない。


 私は、風に煽られて花びらを落とさぬよう、必死に耐えている桜だった。

 本音は言えない。

 弱く見られたくないから強がるしかない。

 誰も一緒に歩んではくれないから、一人で生きるって言うしかないのに。


 それを、怒られるのは辛かった。



 吐き気はどうにかおさまった。

 水を飲みに起き上がったら、まだめまいがする。もう三時を回っているのに。

 ふらふら起きたときに、玄関のベルがなった。

 とてもじゃないけれど、出られない。

 セールスマンか……郵便か、宅急便だと思うけれど、不在通知を入れてもらおう。

 居留守を決め込んだ。


 ベルはゆっくりと「キン……コン」と鳴り、三度目で収まった。

 再びベッドに横になり、私は小一時間ぐっすり眠った。

 目が覚めたのは、再び「キン……コン」とベルが鳴ったからである。

 三秒以上押し続けて放す。そのようなベルの押し方をする人は、あまりいない。

 宅配便の二度目の配達? 私は再び眠った。


 五時頃、再び水を飲むために起き上がった。体が熱っぽくてだるい。

 再びベルが鳴る。

 私はついに観念して出ることに決めた。

 一時間ごとにベルを鳴らされていたら、寝てもいられない。

 パジャマの上に入院中に愛用したハーフ丈のローブを羽織り、ふらふらと玄関に向かった。

 郵便受けに不在通知はなかった。セールスマンにしてはしつこい。

 まずは覗き穴から外を見た。

 ちらりと動く人影は、黒い。うっと息を飲み込んだ瞬間に、目と目があった。

 いや、レンズの関係で向こうからこちらは見えないはすだから、目があうはずはないのだが。


「麻衣? いるんだろ。開けて」


 気配を感じたのか、渡場の声がドア越しに聞こえた。

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