アバンチュール日和・5


 私は渡場と遊ぶつもりはない。


 そう言ったはずだった。

 ところが、このどうしようもない自信過剰男は「キスまではOK」というトンでもない解釈をしてくれたのだ。


「この近くに漁師から魚を仕入れている美味しい居酒屋がある。おなかすいたでしょ?」


「え? ああ……」


 先ほどの危ないかけひきは微塵も感じなかった。ニコニコと当然のごとくに話を進められて、困ってしまう。


「でも、服とか汚れたし、靴とかも……」


「大丈夫、そこはあまり小奇麗な感じじゃないから。でも、炭火で焼いてくれるから、ホッケとか美味いよ」


「ホッケ……」


「好きでしょ?」


 あてずっぽうと思われるが、なぜか図星である。

 渡場は、本当はテレパシストではなかろうか? 

 この危うい恋の冒険に、私がどこかで線引きしようとしているのを察知して、その前に先に先にと、進んでゆくみたいだ。

 その、信じがたいほどの自信……というか、うぬぼれの強さで。


「別に、適当に言っているわけじゃないよ。宴会の時、必ず一番に頼んでいるでしょ? 俺は、麻衣のことはけっこう見ているんだ」


「悪趣味!」


 場渡は片えくぼを作って笑った。



 確かにきれいとはいえない店だった。

 のれんをくぐって入ってみると、壁やら天井やらが黒っぽい感じで、少し煙たい。長年、炭火を使い込んできたのだろう。

 天井からは、たぶん飾りなのだろう、鮭と八角の燻製、漁用のガラス製の浮きが釣り下がっていた。飾り……とはいえ、ほこりがかぶっていて、やはり壁同様に黒ずんでいた。

 炭と魚のいい香りがする。

 小さな店だが、小上がりとカウンター席がある。靴が脱げない私は、選びようもなくカウンター席を選んだ。


 夫婦でやっているのだろうか? おばさんが小上がりのお客さんにビールをせっせと運んでいる。炭で魚を焼いているおじさんが、煙に顔をしかめながらも注文を聞いてきた。


「先生、飲み物はビール?」


 渡場が先生? 確かにそうではあるが、正直いって違和感以外の何ものでもない。

しかし、渡場は、ぎょっとしている私の横で「ああ」などと、当然のように返事をしていた。

 カウンター席は狭い。渡場と私の距離は近い。


「ここの店の息子さんね、たまたまだけど、うちの大学の学生だから」


 とはいえ、渡場のような遊び人に『先生』という呼称は似合わない。と、思い続ける私も、ずいぶんと失礼な女だとは思うが。

 渡場は、そんな私の視線をものともせず、ホッケと焼きなすを頼んでいた。私も壁に掛かった黒板のお勧め料理を何点か頼んだ。

 おばさんが冷蔵庫から水滴がつくほど冷え切ったビールを運んできて、栓抜きでスポッと抜いてくれる。

 渡場と私は、お互い注ぎっこして乾杯をした。

 


 本音を言えば、先日の気取ったお店よりも百倍美味しかった。

 だから、私はかなり上機嫌になり、たった一杯のビールでハイになり、渡場に対する警戒心を和らげていた。

 向かい合わなかったのもよかったのだろう。見つめ合うような緊張感もなく、ほどよいところで、おじさんが「何か焼く?」などと口を挟んでくるので、気が楽になった。

 渡場は、聞き上手な男だった。後半は、私が一方的に話していたような気がするが、程よく自分の意見も言ってくれるので、会話が途切れることもなかった。

 内容は、実にくだらないことだったと思う。でも、楽しかったのは事実だった。

 

 でも、家に帰り着き、別れ際にはさすがに先ほどのやり取りを思い出した。


「次の休みはいつ?」


 その言葉に、私は現実の中に舞い戻った。

 もう今日で終わりにしよう……という言葉が、中々出てこない。

 あまりに心地良過ぎたのだ。今日という日が。


「じゃあ、明日は何番?」


 私がいいたいことは、この男にはわかっているはず。次はない。

 だが、絶対に言わせようとはしない。


「あの……」


「じゃあ、明後日でもいいよ」



 私は胸が苦しくなった。

 もう、今日で終わりにしたら、また、寂しい日々が続く。

 それでも、人様に後ろめたいような恋愛ゲームをするよりはマシ。ちゃんとまともな恋をしなくちゃいけないのだ。

 こんなことで時間を浪費してなんかいられない。

 もしかしたら、三十年近くも見つからない運命の相手との出会いが、この先あるかもしれないのに。

 それを、こんな男のために逃すわけには行かない。


「あ、電話する」


 とっさに言葉が出た。

 今までも「よかったら電話して」と言われた相手は何人もいる。電話したことは一度もない。相手もそれで察してくれた。

 その時、渡場がどのような表情だったのかはわからない。でも、「わかった」とうなずいた。


「俺は、別に麻衣が遊んでいるとは思っていないよ。でも、遊びでもかまわないと思っている。遊びと本気にどれだけの差がある? 遊びが本気になることもあれば、本気でも冷めてしまえばそれっきりだ」


 暗闇の中、渡場は私の首の後ろに手を回すと、あっという間に引き寄せてキスをした。

 先ほどよりも、熱を帯びたキス。

 舌先の甘みに驚いて体を引こうと思ったが、渡場の腕の力は強かった。

 テニスで鍛えている腕は思った以上に筋肉質で、押さえ込まれると動きがとれない。


「麻衣は俺のことが好きだろ? 俺のことが気になって仕方がないんだろ?」


 まるで暗示に掛けるように耳元でささやかれると、ぞくぞくと震えてしまう。とにかくこの雰囲気を壊すしかない。


「……渡場さん、ちょっと、自信過剰すぎ!」


 振りほどけない腕にあきらめて、背に手を回してぽんぽんと叩いた。

 やっと腕をほどいてくれたが、真直ぐに見つめる視線が、かわりに私に絡み付いてくる。


「だから麻衣が行きたいところまでつきあう。無理して自分を抑える必要なんてないんだ。寂しいと思えば、俺を利用したっていい。泣き暮らしているよりはずっと健全だろ?」


 かすかな街灯の光のせいだろう。闇の中に溶け込んだ渡場の黒い顔が、妙に真面目くさく見えた。


「電話、待っているから」


 そういって渡場は去っていった。

 走り去ってゆく車を、私はしばらく呆然と見送った。



 ぼけっとしながら階段を上った。

 玄関で、汚れてしまった靴とストッキングを脱ぐ。バラバラと砂粒が落ちた。

 玄関に鞄をおいたまま、丸めたストッキングを洗面台に放り込んで、スカートを洗濯機にぶち込んで、まずはシャワーを浴びた。

 冷ためのお湯を浴びると、少しだけ海の香りがした。


 電話なんかしない。

 したら、もう引き返せない。だって……。


 工藤と別れて十ヶ月ほどが過ぎた。

 その間に入院もした。落ち込んで体調も酷かった。

 確かに飲み歩いて、誘惑ぎりぎりの危ない状態も何度かあったが、祥子のおかげで何事もなかった。


 つまり……。

 かなり久しぶりの、キスだったのだ。

 

 お湯をどんどん冷たくした。

 外は充分に寒かったのだけど、体の芯がじわりと熱かった。

 今までの誰よりも、渡場はまぶしい男だった。

 誰もあそこまで硬く締まった腕をしていなかった。

 手を回したとき、胸の厚さに驚いた。

 恥ずかしいけれど白状すると、男だと感じて切なかったのだ。

 ぴたりと体が密着したときに、心臓の鼓動を聞き取られているにちがいない。


 だから、電話なんか間違いなくできない。


 好きとか、嫌いとか。

 遊びとか、本気とかの問題じゃない。

 今度会ったら……絶対に抱かれたいと思ってしまう。

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