アバンチュール日和・4


 濡れたまま風にさらされるのは、ちょっと辛い季節になっていた。

 私達は車に乗り込んだ。しかし、渡場は車のエンジンを掛けなかった。 


「ここは夕陽を見るのにいいポイントだな」


 そういわれると、もう夕方だ。太陽がかなり水平線に近づいてきている。

 今日の天気ならば、直接太陽が海に消えてゆく瞬間を見れるだろう。

 車は海を向いていた。崖ぎりぎりでさえぎるものもない。


 いけない。

 ロマンティックすぎる。


 なのに、渡場ときたら海の向こうを遠い目をして見つめているから、私も雰囲気に飲まれそうになってぼんやり海を見てしまう。


 いきなり、渡場が口を開いた。


「昨年の夏、このあたりでグリーンフラッシュを見た」


「グリーンフラッシュ?」


 渡場は、理系らしい説明を手短にした。


「太陽が沈む瞬間に緑色の光が光って見える現象。地球の大気によって太陽光がプリズムを通したように屈折して、緑色が残るらしいけれどね。条件が揃わないと滅多に見れるものじゃない」


 今日はよく晴れているし、このあたりは空気も綺麗だ。その現象が見える可能性もあるらしい。


「それを、渡場さんは見たんだ」


「見た者は真実の愛に目覚めるという……」


「え?」


「……と言われているけれど、それだけ珍しいってこと」


 ハンドルに両腕を乗せて、渡場はちらりとこちらを見た。


「もう、やめよう」


「え? 何」


 何のことだかわからずに、私は動揺した。


「その、『渡場さん』って呼び方」


 私はさらに動揺した。高井たち場渡の後輩は、彼を『直哉さん』と呼んでいる。たまに美弥や理子たちも、そう呼ぶことがあるようだ。


「直哉さん、って呼べばいいの?」


 渡場は明らかに嫌な顔をした。


「俺は君を『麻衣』って呼びたい」



 一瞬、体が硬くなった。

 死にたいような失恋をしたときに、もう名前を呼んでくれるような恋人なんか要らないと思った。

 それを、こんな軽薄な男にずうずうしく名前を呼ばれて、しかもドキドキしているとは。


「馴れ馴れしいんですね」


「そう呼んで欲しいでしょ?」


 呆れてものも言えない。

 いつの間にか、海が黄金に輝きだした。波間に太陽光が線を描き、キラキラと輝いている。

 いつもの夕陽なのかもしれないが、あまりにも綺麗だ。先ほどの流木が、影をさらに長くしている。

 渡場なんか、好きではない。

 この景色が見たいから、寂しかったから、ちょっとよろめいちゃっただけ。

 この辺が潮時なのかもしれない。


「私、恋愛ゲームみたいな遊びなんて、する気ないんです」


 そう、結婚に結びつく真実の愛に目覚めたいのだ。

 たとえ今日、グリーンフラッシュを見たとしても、その相手は渡場であるはずがない。


「俺だって、ゲームなんかするつもりはない。今まで麻衣はそういう恋をしてきたわけ?」


 もう馴れ馴れしく名前を呼んでいる。

 でも、それよりももっと腹がたったのは、遊び人のような言われようをしたことだった。

 してきたのではない。されてきてしまったのだ。


「私はそんな!……」


 半分身を乗り出すようにくってかかった。工藤に甘く見られた傷が、ちくりと胸を刺して痛かった。

 しかし、言葉はそこで留まった。

 渡場の指が口元で、しっ……と合図していた。

 そしてその指は、言葉が途切れた私の唇へとゆっくりと移ってきた。


「俺は遊びじゃない。すごく本気」


 白々しい! と思いつつ。

 渡場はあまりにも遊びなれているらしい。私は目で殺されていた。

 唇に触れる指に文句も出ないし、体も引けない。


「麻衣に非があるとしたら、あまりにも男を見る目がないことじゃないの? 真っ先に俺に会って惚れればよかったのに。そうしたら、くだらない男とつきあわなくてすんだのに」


「ま、真面目にそんなにうぬぼれているんですか?」


 言葉は出たが、体が動かない。


「俺は別に麻衣が遊びでもかまわないよ。ただ、俺は本気だから……」


 唇をかすかになぞっていた指がとまり、そのまま肩に回された。

 外は呆れるくらいの燃える金の世界。

 逆光で渡場は真っ黒に見えて、私は目がおかしくなりそうだった。

 痛む胸に言葉は甘すぎる。

 唇で味わう媚薬よりも、弱点を突かれてこちらが弱っていたせいだろうか?

 内心犯罪的とも思えた渡場との初めてのキスは、おそらく頭のほうがすっかり麻痺していた賜物にちがいない。

 

 少し煙草の香りがした。


 やや大人っぽい長めのキスを、私は拒まなかった。

 というか、おそらくこんな展開になることは途中から……いや、渡場とのドライブを断らなかった時から、わかっていたと思う。

 それどころか、期待していたのかもしれない。だから、渡場は行動にでたのだ。

 今更拒絶したって、バカな女丸出しだろう。

 渡場は、それでもひっぱたかれるとでも思っていたのだろうか? 私が自然にキスを受け入れたことで安心したのか、私の髪を撫でながらにこりと笑った。

 白い歯がこぼれたのを、私は見逃さなかった。

 私をあざ笑う悪魔の顔が、場渡の顔と重なった。すっと気持ちが引いてゆく。

 ここ数日間、私を悩ませ続けたときめきに一つの区切りがついた気がした。


「私、本気じゃありません。遊ぶ気もないです。だから、ここまでです」


 はっきり言えて、ほっとした。

 不完全燃焼したようなもやもやが、水を掛けたように収まった。

 この男は、それくらい言って傷つけても別にかまわないヤツだ。

 豹変するような男だったらどうしよう? という不安がよぎったが、そこまでバカではないだろう。


 しかし、渡場は私が思いもよらないような反応を示した。


「わかった。ここまではいいね?」


 そう言うと、額にキス。今度はさすがに動揺した顔をしたと思う。

 渡場は、車のエンジンを掛けた。


「グリーンフラッシュは見えなかったな」


 外を見ると、あたりは真っ赤な世界のままだったが、太陽はすでに海に埋没していた。

 この日、その現象があったのかどうかも、結局は確かめることがなかったのだ。

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