アバンチュール日和・2
近くの喫茶店で軽い食事を取った後、車は青空に緑の街路樹が鮮やかに映える通りを走り、信号で止まった。
「どこへ行く?」
渡場は、あまりに迷いなく車を進めていた。
食事中も雑談ばかりで、肝心な行き先が話題になることはなかった。
どこか行くところは決まっているのだろう、どこへ行くのだろう? と思って、こちらが口を開きかけたときだった。
「え? どこへでも」
「大胆だね」
ポロリと出た言葉に、渡場はいたずらっぽく笑った。
明らかに冗談だとわかっていても、つけ込まれるよな失言に私は言葉を失った。
「山とか、海とか……どちらがいい?」
「海」
即答して、私はやはりバカだと思う。
北国である。ましてや十月、秋も秋。
街路樹はまだ紅葉してはいないが、山へ行けばもみじがきれいだろう。でも、海は寂しいだけだ。
だが。
海の音が聞きたいと、ふっと思ったのだ。
録音された、作られた空間の音ではなく、本当の海の音。
きっと、夢ではない、現実ではない、不思議な音がすると思うのだ。
今日は……。
渡場は、突然ウインカーを出してUターンをする。
車は、やはり山を向いていたのだろう。
どこへ行くのだろう?
「君が望むところならば、どこへでも」
そう言った場渡が、今、隣にいる。
本当にいるのだろうか? 私は時々、片えくぼが出る頬をつねってやりたいという、衝動に駆られる。
触れることなど、できない幻ではなかろうか?
やはり、絵に描いたようないい男だと思う。私の隣には、似合わないような。
青春映画に出てくるような、どこか爽やかさを持った男。
日に焼けた肌に、笑うとこぼれる歯は白。ただし、作り物であるが。
現実ではないのだ。
まるで映画の一シーンを演じているような、そのようなロマンティックな気分に慣れてしまわぬよう、私のどこかが必死になっている。
行き先は海だ。
すれ違う車の数も減り、まさに私たちの車のために、舗装したような道路が続いている。
街路樹はなくなったが、道の両側は森林になった。
煙草のために開けた窓から、かすかに入る風が気持ちいい。
行き先を決めたのは、確かに私だ。
そう望んだのは私だ。
でも、どこまでいってしまうのか……わからない。
コンビニで煙草と缶コーヒーとコーラを買うと、渡場は突然恐ろしい提案をした。
「車、運転してみない?」
「はぁ? 私?」
うっかり間違って、車に乗ろうとして渡場と反対の左側に行ったのが、きっかけだった。
渡場が助手席のドアを開けたところ、エスコートされるはずの私は、うっかり運転席のドアを自分で開けていた。いまだ、ドアを開けてもらうのに慣れていない。
渡場に、私がペーパードライバーで、免許を取って以来スクーターしか運転したことがないことを、話してはいなかっただろうか?
「だって、ゴールド免許でしょ?」
それはそうだ。運転していない私を、警察はどうやって減点するというのだろう? できっこない。
「……渡場さん、死にたいんですか?」
「別にかまわないよ、白井さんの運転で死ぬなら」
ゆとりの微笑みに片えくぼ。何を考えているのだろうか?
困った私を置き去りにして、渡場はささっと助手席に乗り込んでしまった。
万が一である。
死なないとしても、何かで事故を起こしたら問題である。
渡場にとっては、とんでもなく困る事態になるだろう。やましい関係ではないとはいえ、独身女性とのドライブ中というまずい状況なのだから。
いたずら電話に出るのさえおびえた工藤とは対照的な豪快さに、むしろ呆れる。
私の運転を信じているのだろうか? いや、この男は自分が運転する乗り物以外を信じていないのだ。
私本人が信じていない運転技術を信じて命を託すヤツではない。
よほど自分のフォローに自信があるのかと思いきや、助手席で地図などを調べたりしていて、どうも注意を払ってくれている様子もない。
ハンドルを握る手が緊張する。
アクセルとブレーキは? クラッチは? 忘れている。
「オートマ車だから簡単でしょ?」
簡単とか、そのような問題じゃないのだ。
「あ、中央線はみ出して走っているから、もう少し寄せて」
指がこわばり、パワーステアリングにもかかわらずハンドルがひどく重かった。
どこまで走ればいいのだろう?
やがて道は直線になった。
果てしなく真直ぐで、左手は海岸、右手は草原が続く。どこまでも北に向かってしまう。
何もない。どこまで行っても変わらない。ただ荒涼として果てがない景色。
対向車もない。後ろから来る車もない。
ただ、私のあやふやな運転で、真直ぐ突き進んでいるだけなのだ。
「もう……いい。疲れたわ」
カチカチに凝った肩に悲鳴を上げて、私は降参した。
「じゃあ、あそこにある細道に入って、車を止めよう」
渡場の提案に、私はほっとした。
海側に、浜に下りるための道らしきものがある。
私は充分に減速して、ハンドルを切った……はずだった。
「だめ! もっとブレーキ!」
場渡の声に、え? と思ったときには遅い。
車は勢いよく急カーブを切り、遠心力を受けて激しく揺れた。
細道にすごいスピードで突っ込んだとたん、がくっとエンストをして、どうにか止まった。
体が震えていた。
止まったとはいえ、怖くてブレーキから足が離れない。
なんと、その道はほんのわずかな長さしかなく、ぶっつりと途切れて崖になっていたのだ。
落ちたら命はない……までは行かなくても、車はだめになっただろう。
助手席で渡場が笑った。
笑っている場合ではない。私は動けないでいるのだ。
どうやら私は直線で百キロ近くのスピードで走ってしまい、まったく速度の感覚を無くしていたらしい。
「大丈夫、もうブレーキ放して」
「は、放れないんです!」
場渡はさらに笑った。
「あと、十センチだったね。すごい腕だ」
嫌味とも言える渡場のほめ言葉に、私は苦笑した。
ぎりぎり……。
本当に見事だ。もう前のバンパーは崖に突き出ている有様だ。
覗きこむと、パラリ……と植物の根に絡んでいた砂が落ちてゆく。崖の高さは二メートルくらいだろうか?
さすがに危ないと思ったのか、渡場は車を少しだけバックさせた。
やっと安心できる助手席に座ることができた。
渡場がコーヒーを渡してくれた。
喉がカラカラで半分ぐらいを一気に飲んだ。ほっとした。
「それ、新発売の缶コーヒーだけど、美味しい? ちょっとくれる?」
飲みっぷりがよかったせいか、渡場が興味ぶかそうに言った。
それはつまるところ、私が口をつけたところに口をつけるということだ。
今までの私なら、そんな提案を男の人からされたなら、「いやだぁ、ばばっちい!」などと笑い飛ばして断っただろう。
だが、あまりにあっけなく平然というので、気にしているこっちが意識しすぎに感じて恥ずかしくなる。
ささっと、口紅のあとだけを指先でふき取って渡した。
渡場はにやりとわらって、かわりに自分が飲んでいたコーラを私に渡した。
ちょっとどころか、渡場はうけとったとたんにコーヒーを一気に飲み干してしまう。
気取り屋だとばかり思っていた彼の、意外に大雑把な一面に驚きながら、私もためらいながらコーラを飲んだ。
さすがに炭酸のきつさと甘ったるさで、三口飲んで場渡に返したが。
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