秋空のごとく・6
「白井さん、お客様。この間の」
弾んだ同僚の声に『男の人・プライベートの客・特別な』という響きが感じられた。
杉浦に違いない。
都合がよかった。お金を払わなくてはいけない。
私はあくびをかみ殺し、涙目を指で押さえた。
休みの次の日は、なんとなくだるいものだが、寝すぎのせいで夜が眠れなくなり、今日の体調は最低だった。
ファンデーションのノリは最悪で、粉をふいているのを同僚に笑われてしまった。だらしなく見えるのは、本当に困る。
杉浦ならば、入院中に素顔を見られていることもあるし、むくんだ顔を見せても、あまり気にもならない。本音を言うと、杉浦を男として意識していないのだ。
彼もおそらく「何か調子悪いの?」などと聞いてくるような、そんなタイプではない。
軽やかに売り場に出た。まではよかった。
私を呼び出したお客は、明らかに杉浦よりも頭ひとつ背が高い。
日に焼けてやや色落ちした髪は、肌の色よりも薄く見えた。こちらを見つけて笑った顔には、白い歯が鮮やかに見える。
にわかに緊張した。
渡場だった。
「元気……ではなさそうだね」
渡場は、私の寝不足と肌荒れ、ビールの飲みすぎのむくみまで、すべて一目で見抜いてしまった。
最悪である。
「うん……ちょっとね。友達と長電話しすぎて……」
本当のことである。
「もしかして……電話したほうがよかった?」
渡場は、電話という言葉に敏感に反応した。
電話を待っていたことを悟られてしまったようで、私は焦った。
「い、いや、どうせ出かけていたから。夜も遅かったし、電話しても通じなかったと思う」
「ふーん……」
見透かしたような視線。どうも渡場のような男は苦手だ。
と同時に、渡場が訪ねてきてくれたことをうれしく思っている自分に呆れる。もう、本当にあれが最後だと思っていた。
が、少し悔しかった。
渡場は、やはり私には電話しなかったのだ。
電話をひたすら待っていたのは私のほう。
長電話の間に電話をくれたのでは? とか、杉浦と会っている間に電話をくれたのでは? などと、勝手に想像していたらしい。
今更にして、自分でも呆れてしまう。
もしもこのがっかりを思い知らせるために、渡場がわざと連絡をくれなかったのだとしたら……。
悔しいけれど、かけひきでは完全に負けている。
私は見事に術中にはまり、渡場のことが気になって仕方がない切ない日を送ってしまった。
「昨日は約束が流れてしまったから、今度の休みを聞こうと思ってね」
渡場は、まったく私が約束を反故にしたとは思っていないらしい。
すっきり爽やかな顔を浮かべて、いつ? などと聞いてくる。
「あ、あの……ちょっと待ってください。今、調べてきますから」
私は慌てて休みの表を確認にストックへと逃げ込んだ。
本当は、次の休みを把握していないはずはない。それは言い訳で、一呼吸置いたのだ。
次……間違いなく渡場も休みであるはずの、珍しい日曜日の休み。
デパート勤務が長い私には、日曜日が休みの友人といえば、どうしても付き合いが遠くなり、あの玲子ぐらいしか残っていない。
彼女とは、今顔を合わせてもただ憂鬱なだけだろう。
では、また再び寝て日々を費やしてしまうか?
それとも掃除をがんばる?
月曜日はゴミの日だ。押入れの中まで掃除して、要らないものを捨ててしまおうか?
——どうしたらいいのだろう?
都合が悪い、しばらく暇はない。と言えばいいだろうか?
それとも、ずばりとあなたとは会いたくはないというべきか?
それとも……。
結局、私は三番目の選択をする羽目になってしまった。
渡場は、女殺しの微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、日曜日。十時に迎えにいくから」
気持ちが揺れる。
本当にバカなことをしていると思う。
帰りがけ、渡場は一度振り返って言葉を付け足した。
「無理をしないように。明後日までには体調を整えておいて。もう、延期されるのはごめんだから」
私はバカである。
渡場のつまらない誘惑に乗るのもバカな証拠であるが、それよりも何よりも、限りなく幸せを感じていることが……なのである。
お昼を食べていてももちろん幸せだが、おしゃべりなお客に付き合わされて、散々孫の話を聞かされても幸せだった。
仕事中、ずっと幸せだった。
日曜日のことを考えると、不安もさることながら、顔がおのずと微笑んでしまうのだ。
お客様を見送って振り向いたら、自分の姿が試着用の鏡に映っていた。確かに年齢よりは若く見えると思う。
気のせいか、ファンデーションのノリも回復してきたようだ。
秋空のごとく……。
雨が降り、いきなり晴天になる。かと思えば雷がなり、にわかに掻き曇る。
正直、渡場と出会ってからの私は、まさに揺れ動く気持ちに歯止めがかからない。
甘い夢を見ていたい……と思いつつ、甘い夢を見ている場合ではないと焦り、甘い夢を見るような相手ではないと、冷静になったりもする。
ぽっかりと空いた失恋の傷に、甘い毒薬を注ぎ込まれたような気がする。しかし、結婚の二文字と同様、その薬は利いた。
「なぁんか、肌色いいじゃない?」
お昼を食べながら、祥子が疑い深げな視線を送っていた。
「うん、筋腫がなくなったせいかもねぇ」
「いったいいつのこと言ってんのよ。なぁんか、怪しいんだよねぇ」
詮索好きで情報通の祥子には、やはり場渡のことは言えないだろう。
「べ、別に怪しいことなんてないよ。何も」
「だから余計怪しいんだよねぇ」
そういいながら卵焼きを食べる祥子は、恋愛の『れ』の字も感じさせない女だ。結婚なんて、どうでもいいらしい。
そういうたくましさが、私はうらやましい。
売り場を取り仕切る頼りある女子社員として、職場での彼女の地位はゆるぎない。
「まぁ、麻衣の場合は惚れっぽいから、少し気をつけたほうがいいわよ。とはいえ、玲子みたいのも困り者だけどさぁ」
「わ、私のどこが惚れっぽいのよ!」
図星かもしれなかった。今まではそう思ったことはないのだが、今回は。
渡場を充分見抜いているくせに、ときめく気持ちを抑えられないのだから。
私は話をそらした。
「玲子の話、聞いていたんだね。祥子も……」
「そうだよ、あんたが男と飲んだくれているおかげで、聞かされる羽目になっちゃったんだから」
「飲んだくれ? ひどいわぁ」
「某売り場の主任が、翌日少し荒れていたって、売り場の女の子がひねくれていた。いろいろ教えてくれてさぁ。工藤って、少し麻衣に気があったようだから、男と飲んでいるのを見て、ショックを受けたんじゃないの? あんたも罪な女だからねぇ」
祥子から工藤の名前が出て、私は正直焦った。
だいたい、私のどこが罪な女なのだろう。工藤のほうが罪な男だ。
散々、私をだましておいて他の女と結婚しておいて、さらに片手間に未練たっぷり……の、どこに同情の余地があるのだろう。
祥子だって、私と工藤の関係を知ったら、絶対に工藤には同情しないだろうと思う。
しかし祥子は気にも留めず、太目のたくましい足を組んで、お茶をすすっていた。
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