秋空のごとく・4
無言が続いた。
「もしもし……」
仕方がない。どきどきしながら、一言目。
しかし、電話の向こうの声は中々返事をしない。
「もしもし、どちら様でしょうか?」
やはり、いたずら電話?
私は緊張しながらも、あまりに反応のない相手を怪しんだ。
やがて……。
「……麻衣?」
か細い声。
血がすとんと落ち着いてゆく。
「なーんだ、玲子か。こんな夜中に焦らせないでよ。何時だと思っているのよ」
「……ごめんなさい。でも、私……誰かに聞いてもらいたくて……」
見合いで結婚間近なはずの玲子である。
しかし、声には何か思いつめたものがある。
「何? 何かあったの? どうしたの?」
今にも死んでしまいそうな、消え入りそうな声に、私の酔いもすっかり醒めていた。
「あのね……結婚……駄目になったの」
「駄目? 駄目ってどうして? あんなにうまくいっていたのに?」
泣き声になりながらも、玲子は言葉を続けた。
「……うん。それってね……。どうやら。私の思い違いだったみたい」
私は唖然としてしまった。
散々嫌になるほど、幸せを聞かされ続けて、その結果が思い違い?
「……連絡がね。なくなったから、気になってこちらから電話をしたの。そしたら……」
一瞬、玲子の声が涙で詰まった。
「……紹介者からお話はなかったのですか? って……」
「なによ、それ?」
「……彼ね、一週間前に紹介者を通じて、今回の話を断ったって」
一週間前。
私は思わず受話器を持ったまま、ソファーに倒れこんでしまった。
この一週間、あいも変わらず玲子からの電話攻撃は続いていた。
どれだけ自分が幸せか? 結婚したらこうしたい、ああしたいなどと、同じ話をしつこいくらいに聞かされて、半分、いや大半を聞き流していたのだ。
それが……実は断られていた?
「どういうことなのよ! 何なの? その男!」
私は声を荒げたが、玲子のほうはその声を無視して、延々と話を続けた。
「彼が悪いんじゃないの。私が悪いの……」
玲子の話は主観的過ぎてよくわからない。
長いだけ長くて、要点がつかめなかった。
でも、どうやらこういうことらしい。
おそらく、相手は最初、玲子に好印象を持ったのだ……と思う。しばらくお付き合いしてみましょう……と、返事をしたようだ。
それを、玲子は「結婚しましょう」と返事をもらったと勘違いしたらしい。
その後、どのような付き合いがあったのかはたくさん聞かされたが、こうなった以上、それを全部信じることはできない。
結局は、そのお付き合いがまずかったのだろう。相手は玲子の話にうんざりしてしまったのではないだろうか?
なぜって、私がそうだから。
見合いがあってからというもの、私はほぼ毎日のように玲子に結婚後の予定を聞かされていたのだ。
正直、うんざりだった。
まったく第三者の私にさえそうなのだから、相手はもっとたっぷり聞かされたのに違いない。
「私が悪いの。今から思えば、私、悪かったところが一杯だったの」
それはそうだ。
結婚したくて見合いをしたといえど、結婚後の理想を勝手に延々と聞かされてしまったら、相手だって恐れをなす。
一歩引かれてしまって当然かもしれない。
しかし、私の予想と玲子の解釈には、大きな隔たりがあった。
「私、ピンクの服をお見合いのときに新調したでしょ? それを話しちゃったのよ。だから、浪費家に思われてしまったらしいの」
「はぁ?」
「彼はね、スーツを着てきたけれど、新しいスーツを作ったわけではないって、笑っていたの。だから、本当は倹約家のほうが好きだったのよ」
「はぁ……」
「それを私ったら鈍感だから、コンタクトを新調してしまったことも話しちゃったの」
「は…ぁ……」
「さらにね、結婚式をハワイでやりたいとか言ったから。彼ね、そんな気持ちなかったみたいなの。仕事もね、もう退職届を出すつもりだ、っていったら、まだやめないほうがいいって……。きっと共働きしてもらいたかったのよ。お金にシビアな人だって気がついたら、そんなこと言わなかったのに。なのに私ったら、ハワイが駄目で仕事も続けるなら、二百人は呼べる豪華な結婚式にしましょうね、って言っちゃたの」
「は……」
初めは落ち込んでいる玲子を本気で心配していた私だが、ここまで聞いていたら、なんだか滑稽で哀れすら感じてしまう。
「玲子、結婚をそんなに焦んなくてもいいじゃない。また、きっといい人が現れるからさ」
しかし、玲子は自分を責めるだけで私の話など聞いてはいないのだ。
「私、本当は浪費家じゃないから……って、結婚したらがんばって倹約するからって、いったんだけど、彼、もうそのような話はやめましょうって……」
「だから……浪費家とかそんな問題じゃないと思うけれど」
「今度、お見合いするときは、新しい服なんか買わない」
「あの、だから服の問題じゃないと思うけれど」
「それに、地味な結婚式でもかまわなかったのよ。結婚さえできれば。今度は、向こうが望む結婚式をよく聞いてから、自分の意見を言うわ」
「だから……そうじゃなくて」
「どうにかして結婚しなきゃ……私、もうだめなのよ」
やはり友達甲斐のない女かも知れない。私は。
真剣に聞いていた話も、二時間後には半分くらい、三時間後には大半を聞き流しながら、ビールを飲み始めた。
電話の間にトイレも三回行った。
夜が白々と明ける頃には、玲子は五度目の浪費家ぶりを熱弁し始めた。
相槌も、もういらない。
聞いていなくてもいい。
彼女も私のアドバイスなど期待していない。
語ること。語ってすっきりすること。それが一番なのだから。
ここまで結婚を焦る玲子を、正直愚かしいと思う。
とはいえ、私も五十歩百歩とはいえないだろうか?
玲子の不幸に、ほっとしている。
心のどこかで「置いていかれずにすんだ」と思っている。
結婚って何だろう?
そこまで、私たちをおかしくさせる媚薬のような言葉。
窓から見える木立の緑が、いつの間にか鮮やかに見える。
夜が明けたのだ。
気がつかないうちに、青い闇が黄金の空に変わり、薄水色の風景が本来の色を取り戻してきた。
今日は、天気予報通り晴天。ドライブ日和だ。
物悲しくなったのは、玲子の悲劇のためではない。
この秋晴れの素晴らしい日に、どこにも行く予定がないからだった。
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